「胸は祖国におき、眼は世界に注ぐ」・・・岩手県沢内村にある古刹・玉泉寺の境内に、この碑文を刻んだ石碑が建てられている。平沢和重、といっても多くの人たちにとっては聞き慣れない名前であろう。しかし七十歳を超えた私たちの世代には、NHKの解説委員として広い視野でテレビ解説をしてくれたこの人の見識が脳裏から離れない。碑文はこの人の自筆を刻んだものである。
平沢和重は明治四十二年に香川県丸亀に生まれた。昭和十年、東京帝国大学政治学科を卒業して、外務省に入省、ワシントンの日本大使館で斎藤博大使の秘書官、太平洋戦争の開戦時にはニューヨーク領事だった根っからのアメリカ通。
丸亀生まれの平沢和重の碑文が何故、東北の寒村の古刹に遺されているのであろうか。実は平沢家は父の時まで代々、沢内村に住んだ旧家であった。平沢一族は現在も沢内村に居住している。太平洋戦争の末期には、隣村の湯田村に朝子夫人とともに疎開し、戦後、縁があってNHKの解説委員になった。
敗戦の悲惨な廃墟の中から新生日本を礎く心意気を「胸は祖国におき、眼は世界に注ぐ」の言葉で表現したもので、菩提寺の和尚から請われるままに色紙に書き遺した。
テレビにおける平沢和重の国際情勢の解説は、あの無謀な戦争を阻止できなかった戦前の外務官の痛切な反省が根底にあった。だから私たちの心を打つものがあるといえる。
同じように外務官から戦後、共同通信社の社長になった福島慎太郎とは無二の親友で、ともに三木元首相の外交ブレーンとして重きをなした。昭和三十四年には東京オリンピック招致使節として国際オリンピック委員会総会に出席、国連外交官として活躍した平沢和重は、「眼は世界に注ぐ」心構えを大切にし、人にも説いた。
昭和五十二年に六十七歳で没したが、この平沢和重の遺徳を偲ぶ村人によって石碑の前の香華が絶えることがない。
「胸は祖国におき」は強烈な愛国心の発露である。この国をこよなく愛し、国家の発展を願う気持ちが素直に現れている。しかし「眼は世界に注ぐ」の一句によって、偏狭な祖国愛を厳しく拒絶している。だから碑文は厳しい警句である。
戦後六十年を経て、日本人は国家というものを再認識する世相となった。それは喜ぶべきことだが、ともすれば偏狭な愛国心を生み、他民族を排斥する誤ったナショナリズムを誘発することは避けねばならぬ。平沢和重の碑文は、今日も静寂な古刹の境内で静かな佇まいをみせているが、警句の意味を私たちは忘れてはならない。
2 胸は祖国におき、眼は世界に注ぐ 古沢襄
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