28 才能豊かな漫画家の死 古沢襄

中村篤九という才能豊かな漫画家について語れるのは、私だけになったのではなかろうか。父・古沢元と中村篤九は兄弟の様な交わりを結んでいた。中村篤九は古沢元のことを「兄貴!兄貴」と呼んでいた。まさに家族ぐるみの付き合いで、両家はお互いに行ったり来たりしていた。戦争中に中村篤九は東中野に瀟洒な家を構えていたが、空襲で一面焼け野原になっている。
古沢元と中村篤九の没後も両家の交わりが続いている。中村篤九は二人の兄弟と娘を残して、三十八歳の若さで他界したが、この兄弟と娘は私のことを「お兄ちゃん」とよんでくれる。さすがに兄貴とはいわないが、娘は長男のことを「兄貴!」という。
古沢元には実弟の漫画家・岸丈夫がいる。また義弟は杉浦幸雄。この縁で古沢元は中村篤九と親しくなったのであろう。だが岸丈夫と中村篤九の間には、あまり両家の交流がみられない。孤高を保つ岸丈夫と才人だった中村篤九の肌合いの違いがあったのではないか。
杉浦幸雄は若くしてこの世を去った中村篤九の才能を惜しむ文章を残している。だが、この両家にも親しい交流の跡がみられない。むしろ岸丈夫一家との交流が深かった。これは杉浦夫人と岸夫人が姉妹だったことが影響している。不思議なのは、杉浦幸雄は中村篤九の回顧は数多く残しているが、岸丈夫については多くを語っていない。
杉浦幸雄にとって親友は近藤日出造であった。中村篤九は、その次ぎであったろう。したがって中村篤九の回顧も職場であった新漫画派集団に限られている。中村篤九の実像を語れるのは古沢元だが、敗戦の翌年にシベリアで没している。
この前提で杉浦幸雄の書き遺した中村篤九のことを見てみたい。
戦時中のことだが「横須賀軍港を見学させて戴きました。一行は、小説家の真杉静江、納言恭平、北町一郎、南川潤。漫画家の田中比左良、近藤日出造、中村篤九、挿画家の岩田専太郎、田代光、嶺田博の諸先生に、団長格の戦線文庫の大島氏です。ご案内下さるのは人事局の○○中佐、といふ顔ぶれです。軍港見学といふので、それぞれ一張羅の戦闘帽、国民服などに身を固めたのが多く、中村篤九氏の如きは紺の国民服に黒の戦闘帽に巻脚袢、ガスマスク入れ程のカバンを斜にかけた一部の隙もないいでたちで「どうだい、ちょいと見ると海軍の何か偉い所の人みたいだらう。これで陸軍の時はカーキ色にして行くんだぞ」と大得意。まさに、中村篤九は現代のオシャレであります」私の記憶に残る中村篤九もダンデイで洒落者だった。古沢元も大島の着流しを好んだダンデイ。似たもの同士ということになる。
新漫画派集団における中村篤九は人気があった。マネージャーを兼務する漫画家の中村篤九が「マンガや文を描きながら、仕事を取ってきたり、原稿料をもらってきたりしたんだと思いましたね。新漫画派集団の原稿料はよかったらしい、他の人に比べ。集団に入ると、途端に原稿料は上がったという時代だった」という。
それだけでない。「中村篤九は才人だったが、可哀相なやつで……。頭がよくてマンガも面白いし、文が特別また面白くて……。根が自由主義者だから、なんと言っても、妥協するとはいえ、ついつい出ちゃう。 “ご当局”から睨まれちゃうんですよ」
この中村篤九評は的を射ている。戦時中に中村篤九は「完ちゃん」ものの漫画本をいくつか出して流行漫画家となったが、漫画だけでなく、文章が冴えていた。その漫画も戦争に協力するものは描いていない。ただの才人ではなかった。逆に岸丈夫は日本と戦った米国や英国を攻撃する政治漫画を描いて売れっ子となっている。それが戦後の岸丈夫が漫画を描けない遠因となった。杉浦幸雄はトミ子夫人をモデルにした「銃後のハナ子さん」を描いたが、戦後は「アトミックのおぼん」「東京チャキチャキ娘」の連載ものになった。
漫画・漫文の世界で、溢れるような才能をみせた中村篤九だが、昭和22年6月8日に生まれ故郷の札幌市で急性劇症肝炎のため、三十八歳の若さで亡くなる直前に「阿宝正伝」(杜父魚文庫に掲載)を書いた。
その「あとがき」に次のような心情を述べている。
おもしろく、おかしく、たのしいものを書こうと思いながら、二十年も漫画の仕事ととっくんで来たが、どうしたものか、ここ五,六年の仕事の半分は漫画にあらざるいと怪しげなる一連の文章であった。
漫画家が文章を書くとたいがい漫文と言うタイトルがつくが、この手で行くと床屋さんが書いた文章は床文になる。漫画家でもたまには借金の依頼状などを書くこともあるのであって、時折大真面目に書いたものでも漫文とかかれて、悲しくなることもある。おもしろいものである。
自分の考えて居ることを若干の文字のられつによって、他人わからせようとするこの事はなかなか楽なものではない。漫画の方がはるかに楽なような気がする、これからも一生懸命この仕事にかかりたいと思って居るが、今はなかなかに身辺多事多難で出来ない。
屋根の雪下ろしや、煙突の掃除や食物の心配や、ときにはコチンコチンに凍った便所の糞を、つるはしでかき砕く芸当もしなければならない。こんなことは北海道でなければ出来ない芸当だからうんとやっておこうと思っている。
戦争中はご多分に漏れず、工場の産業戦士訪問や、貯金の宣伝や、防空漫画などなど色々の太鼓叩きに忙しかった。
徴用、召集、空襲,戦災、疎開と、戦争によって経験すべきことの大半をまず人並みに経験して、この雪深き北海道で、今静かに過ぎこし方を思い返して居るのである。
それにしてもよくまあ壮健で来たものと、しみじみ思う。この先どんな生涯が待って居るかも知れないが、せめてここ迄辿りついたと言う目印にもと、この阿宝正傳の一冊を出版する事にした。
すべて昭和十四,十五年日支事変たけなわなる頃に書いたものばかりで、ろくな仕事はないが、まあそのなかでもここらあたりが一番私の楽しい仕事であったようだ。ただ一つ「世話情闇夜蝙蝠」だけは去年の十二月たのまれて書き下ろした脚本である。
序文を書いて下さった櫻井忠先生は尋常四年五年六年の三年間を、あたかも私が今日あるように教育して下さった唯一無二の恩師である。今もなお私は私の仕事について、何かとお助けを乞うて居るが、先生とはありがたいものだとつくづく思って居る。昭和二十一年三月
自由人たる中村篤九の面目躍如たるものがある。杉浦幸雄はこれを読んで、「中村篤九は札幌に疎開していた。それで戦争が終って、サア俺の時代だと、これから東京へ行ってうんと活躍するぞと、友だちが送別会をやってくれて、もともと酒の飲めない男だったが、自分のための送別会で飲まないのも悪いと思って。終戦直後、カストリ焼酎といって悪い酒しかなかった。それをちょっと飲んで、それで死んじまいやがった。あいつが戦後生きていたら、活躍して、どんなに面白かったか」と嘆いた。
カストリ焼酎による死亡説は杉浦幸雄が、その風評を聞いて広めたものであろう。だが遺児の中村完治さんは、これを否定している。
父の死に付いて当時東京のお仲間が諸説を述べられその中でもっともらしく「篤九はメチルで死んだ」という伝聞が真実として残ってしまったようです。人の死に様には色々ありますがこれではあんまりだと死を見取った私としては思うのです。 
俊子母(中村夫人)もこの件に関しては事実と異なるのでいつも憤慨しておりました。父の死が不名誉なメチル中毒では本人も浮かばれないと思っております。
酒が無い時代酒を飲みたいカストリ焼酎を飲んで多数命を落としましたがNHK御用達の料亭がそんなものを出すでしょうか?
メチル中毒の症状は全身に痙攣が来て意識障害、血圧低下、呼吸障害が起こりますしまた死に至るような中毒の場合は目が潰れます。篤九父はそのような症状は一切無くNHKの接待から帰宅後、普通どおりに過ごしていまた。
率直に言ってメチルの伝聞はここ限りにしたいものです。こんな話が有ったよねって笑い話で済ませたいと思っております。
家族の気持ちとしては、よく分かる。しかし一度立てられた風評はなかなか消えるものではない。杜父魚ブログで死因の名誉回復をしたいと思って、あえて遺族の気持ちを掲載した。それもあるが、中村篤九という才能豊かな漫画家がいたことを後世に伝えたい。杜父魚文庫の巻頭に遺作の「ア・セラポール行列車」を掲げた意味もそこにある。

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