36 ブリヤートとモンゴル 古沢襄

モンゴル史の造詣が深かった司馬遼太郎は、日本人のルーツの一派はシベリア諸民族だという説をとる。地理的にいうと東北の蝦夷の先祖はシベリア系という仮説も成り立つ。古来、東北は大陸との交易が盛んだった。
シベリアのイルクーツクに流れるアンガラ河という大河がある。バイカル湖から流れる唯一の河なのだが、その河畔で日本人かと見間違うブリヤート女性に出会った。イルクーツ大学の学生であった。
信じ難いことだが、不毛の低湿地だったシベリアには紀元前三〇〇〇年から二〇〇〇年にかけて青銅器文化が興っている。ミヌシンスク遺跡の発掘がそれを裏付けている。その頃の日本は縄文時代の闇の中にあった。古代オリエントから伝わった青銅の冶金技術がシベリアで開花して、中国の殷・周に影響を与えたという説もある。
中国の歴史資料でも紀元前三世紀から五世紀にかけてシベリアのバイカル湖周辺の丁零(ていれい)にトルコ系と思われる遊牧民国家が成立して交易を行っている。
また高車(こうしゃ)というトルコ系の遊牧民国家も存在した。このほか堅昆(けんこん)というトルコ系の遊牧民族もいて、高度の冶金技術を持っていたとある。これらの遊牧民国家は匈奴によって滅ばされ併合の憂き目に合っている。
今の世界地図のトルコからみれば、シベリアとトルコを結びつけるのは困難だが、トルコ族の故郷はイラン北方にある。北インドで王朝を築いたキルジー部族やトウグラク王朝もトルコ種だといわれる。
草原の剽悍なトルコ遊牧騎馬民族は、この頃四方八方に草原を求めて散り、その一部がバイカル湖周辺に至ったのであろう。そして原住民のブリヤート人との混血が行われた。
ブリヤート人はブリヤート・モンゴルといわれるのを好まない。もともとモンゴル高原にあった高地モンゴル族は水辺は病の元だと信じている。水を飲まず羊の乳を発酵させた飲み物を常用している。
モンゴルと国境を接するブリヤート共和国で、生粋のモンゴル女性と思われるガイドに出会った。ウランウデ大学の日本語学科に留学していたが、これも日本でよくみかける顔であった。
高地モンゴルはまた包(パオ)という異動に適した天幕に住んでいる。バイカル湖周辺にあったブリヤート・モンゴルは天幕の包を用いず、形は包なのだが木の皮で葺いた屋根に土を盛って住む。異動の便利さよりも酷寒に耐える住家を選んだのであろう。同じ遊牧民であっても高地モンゴルとシベリアのブリヤート・モンゴル(低地モンゴル)は生活形態が異なる。
同根の民であっても、長い歴史の中で異種ともいうべき違いが生まれている。目が細く、小柄な高地モンゴルに較べて、バイカル湖周辺の低地モンゴルはパッチリとした大きな目、さらには長身の特徴がある。トルコ種、ロシア種の混血によって違ったモンゴルが生まれたのだろう。だからブリヤート人は”モンゴル”と呼ばれることに抵抗感を隠さない。
それだけでない。十三世紀にチンギス汗とその子孫がロシア全土を征服し、その版図は西のロシアから東のシベリアに及んだ。これも信じ難いことだが、サハリン(樺太)もモンゴル帝国の支配下に置かれた。この壮大な版図を支配したキプチャク汗国は、一万のモンゴル騎兵とその配下にあるトルコ系遊牧民族だけで圧政を行っている。
草原地に根拠地を置いてロシア人を監視し、ひとたび反乱の兆しがあれば、機動力に優れたモンゴル騎兵が殺到して、殺戮を繰り返し、町を焼き、破壊し、住民を皆殺しにした。西欧で花のルネサンスが咲き誇っていた時期のことである。その時代にロシア人は「タタールのくびき」と呼ばれた暗黒時代に置かれている。”モンゴル”という言葉はロシアでは禁句だと覚らねばならない。
しかし二百五十九年間に及んだ「タタールのくびき」は、あっけなく崩壊する。キプチャク汗国の分家筋に当たるクリム汗が、ロシア大公イヴァン三世と結んで、キプチャク汗国にとどめを刺した。
そのクリム汗国も、ロシアのエカテリーナ女帝の時代に近代化された軍勢によって滅ぼされた。一七八三年のことである。クリム汗国は今のクリミア半島を中心とした草原を支配地としていて、クリム共和国の人たちは混血を繰り返しているが、まさしくモンゴル騎兵の末裔である。
帝政ロシアが成立するまで、これだけの歴史が存在する。帝政ロシアになって、シベリア征服の先兵となったコザックはロシア人だが、辺境に住むカザークという種族で、剽悍な騎馬民族である。
一五八一年に数百のコザック騎兵がロシア皇帝・イヴァン四世(雷帝)の命を受けてシベリアを目指したが、大砲や銃を携行した。最大の難関はバイカル湖湖畔の草原で遊牧していた精悍で誇り高いブリヤート人であった。このブリヤート騎兵の集団に対して、コザックは大砲を使って殲滅している。
日本では江戸時代にコザックのことを「赤蝦夷」と呼んで、早くも知っていた。徳川幕府の命で工藤平助なる人物が「赤蝦夷風説考」という本を書いたが、そこには「シベリアはもともとダッタンの故国だったが、オロシアが大軍を送って、法を改め、政をただし・・・」とコザックのシベリア征服を肯定的に叙述している。間宮林蔵のカラフト探検は、この本を読んで触発されたという。
ダッタンについて司馬遼太郎は「韃靼疾風録」上下二卷を書いている。その受け売りになるが、韃靼はタタールの漢字表記である。元が亡びて、モンゴル騎兵が北の草原に戻っていった時に、明王朝の漢人たちは、モンゴル人を卑しんで「韃靼」とよんだ。
ついでながら満州族を「女真」と呼んでいる。モンゴル騎兵は、女真は豚を飼うといって卑しんだが、女真騎兵も精悍さではモンゴル騎兵に劣らない。むしろ足の短いモンゴル馬よりも、女真が用いた足長の馬は騎走力で優れていた。
やがてモンゴル騎兵は女真騎兵の支配を受ける様になり、明王朝末期には万里の長城以北は、満州族が勢威を示して強力となった。「満州」は女真族の中核となったマンジュ(漢字表記では満州または満住)部族の呼称。万里長城の山海関(さんかいかん)を突破してきた女真の騎馬軍団によって、明王朝の歩兵が蹂躙され、北京城が陥落して辮髪の清王朝が誕生している。

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