37 鉱山屋が絵描きになった小角画伯 古沢襄

小角又次画伯の水彩画展が12日から小田急新宿店の本館六階アートサロンで開かれている。山形県生まれの小角さんは秋田鉱専(秋田鉱山専門学校・明治43年に設立=秋田大学工学資源学部)を卒業して独習で画家となった変わり種、無二の親友だった新劇俳優の森幹太さん(故人)も秋田鉱専の出。八十三歳になって耳が遠くなったが今でも画筆をとっている・
昔は油絵も描いたが今では水彩画一筋で、雪などは絵の具を使わずに白い生地をそのまま浮き上がせた独特の手法を使っている。1998年に小田急美術サロンに出展した「薬師岳・20号」は八年前の作品だが、一人で立山に登って雪をいただいた薬師岳を描いている。
静物画も得意で1994年に小田急美術サロンに出展した「桃・6号」も微細なタッチで描いてみせた。今回、出展している「渓流春雪・20号」も大作である。それを案内のハガキに使っていた。
小角さんは鉱山機械学科、森幹太さんは採油科の卒業だが、ともに学徒出陣で将校さんになったものの、敗戦で復員してきたら職がない。「俺は絵描きになる」と小角さんは言いだして、東京・野方に住んでいた漫画家の岸丈夫のとろに森幹太さんと一緒の訪ねてきた。岸丈夫は漫画を描く一方で油絵も描いている。
二人とも畏まっていたが、その中に森幹太さんは「俺は絵の方は向かないから俳優になる」と小角さんに打ち明けている。やがて劇団「銅鑼」の主催者となり、テレビにも主演するようになった。
地方巡業がない時には、東京・都立家政の小角さんの家で二人は酒を飲んでいた。私も仲間に入れて貰って、愉快な酒を遅くまで飲んだものである。そんな縁で小角さんの絵は数点持っている。買ったものもあるが「持っていけよ」と言われて頂戴した作品もある。
1998年に西和賀町の玉泉寺境内に建立された古沢元・真喜文学碑の除幕式の時には、小角さんと森幹太さんも遙々東京から来てくれて、森幹太さんは古沢元の「杜父魚の詩」を文学碑の前で朗読してくれた。あれから八年の歳月が去った。森幹太さんは新潟で亡くなったが、小角さんには、いつまでも元気でいて貰って、いい作品を描いてほしいと願っている。(2006・7・15)

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