38 パリ祭は革命記念日 渡部亮次郎

7月14日を日本ではパリ祭というが、なに、フランス革命記念日なんだ。冗談のようだが、昭和12年には元総理大臣森喜朗が石川県で生まれている。目出度く69歳。2日後には注目の人福田康夫が古稀だ。
1789年、パリ市民がバスティーユ監獄を襲撃・占領し、多くの政治犯を解放した。これがフランス革命の始りとなった。この日が日本で「パリ祭」と呼ばれているのは、ルネ・クレール監督の1932(昭和7)年の映画”Le Quatorze Juillet”(7月14日)の邦訳名が『巴里祭』だったことに因む。
検疫記念日
厚生省(現在の厚生労働省)と日本検疫衛生協会が1961(昭和36)年に制定。1879(明治12)年、日本初の伝染病予防の法令「海港虎列刺病伝染予防規則」が公布された。
ひまわりの日
1977(昭和52)年、日本初の静止気象衛星「ひまわり1号」がアメリカのケネディ宇宙センターから打ち上げられた。
ペリー上陸記念日
1853(嘉永6)年、アメリカの4隻の黒船艦隊が江戸湾の浦賀沖に現れ、ペリー提督が久里浜に上陸して将軍への親書を渡した。蒸気船をお茶の銘柄・上喜撰にかけて太平のねむりをさます上喜撰たった四はいで夜もねられずと狂歌に詠まれるほど、江戸の街は大混乱となった。
幕府は、翌年のペリー再来に備えて品川沖に6基の砲台(台場)を作った。翌年来航したペリーとの間で「日米和親条約」が結ばれ、日本の鎖国が終った。
廃藩置県の日
1871(明治4)年、藩を廃止して県を設置する詔書が出された。1869(明治2)年の版籍奉還で江戸時代の藩はなくなっていたが、旧藩主がそのまま藩知事となっていた。明治政府は中央集権国家を確立するため廃藩置県を断行し、各県に中央政府から県知事を派遣した。当初は3府302県で、後に3府72県に改廃した。
求人広告の日
1872(明治5)年、『東京日日新聞』に日本初の求人広告が掲載された。
<フランス革命はブルボン王朝による圧制への反発が直接の原因となって発生した。1780年代から革命へ向けた様々な動きが生じていたが、一般に1789年7月14日のバスティーユ襲撃をもって革命の開始とされる。この事件を契機としてフランスの全土に騒乱が発生し、アンシャン・レジームは崩壊した

革命の波及を恐れるヨーロッパ各国の君主たちは革命に干渉して、これに反発した革命政府との間でフランス革命戦争が勃発した。さらにフランス国内でも、ヴァンデの反乱を始めとする内乱や、ジャコバン派による恐怖政治、繰り返されるクーデターなどによって混乱を極めた。
フランス革命は、1794年のテルミドールのクーデターによるジャコバン派の粛清によって転換点を迎えた。この事件を革命の区切りとする見方が多い。だが不安定な状況は、1799年のブリュメールのクーデター、あるいは1801年にフランス政府がローマ教皇とコンコルダートを結んで和解するまで継続した。
フランス革命が掲げた自由・平等・博愛の近代民主主義の諸原理は、今日では日本を含む世界中の多くの国家が取り入れるに至っている。他にも民法、メートル法など、フランス革命が生み出した制度や思想は、世界史上に多大な影響を残している。>(フリー百科ウィキペディア)
これだけの歴史を日本人は、ただ目出度くパリ祭などと飲んで騒ぐだけだが、パリでは厳かな市民革命記念式典を挙げる。大統領の主催だから小説の題材となる。
ドゴール大統領の暗殺を請け負った「ジャッカル」がこの日、コンコルド広場を狙うアパートに忍び込み、ドゴールのこめかみに標準をあってて発射・・・フレデリック・フォーサイスの「ジャッカルの日」の終盤の盛り上がり。
1978年7月14日。隣国西ドイツの首都ボン(当時)で開催されるサミット先進国首脳会議に出席するための福田赳夫総理一行は途中、フランスのパリに立ち寄った。「お、亮チャン、パリでうまいものを食わしてやろう」と総理は上機嫌だった。
(あなたの任期は残り4ヶ月。大平正芳幹事長と交替すると交わした”密約”を私は知っているのですよ。その約束を反故にするため、サミットに便乗して福田人気を盛り上げようとしている魂胆にも気付いているのですよ)とはおくびにも出さなかった。
私が秘書官として仕える外務大臣園田直は格別に不機嫌だった。念願の日中平和友好条約。極秘裡に中国へ放った黒衣(くろこ=スパイ)からの合図は「園田さんが来てくれたら必ず調印する」という反応。それなのに総理は外務省事務方に調印させるハラ。
(しかも2年前の密約に立ち会った自分の前でのこのはしゃぎ様はなんだ!おれは2日前の12日午前6時半に目白の私邸で田中角栄と2時間の密談を交わし、「次は大平」を確認したところだよ)。世間はだれもしらない。
ドゴール空港上空。香水とシャンパン(機内で飲みすぎたのか、胸焼けしてたまらない)の国は畑だらけ。大変な農業国おフランス。
14日の朝が明けた。福田総理のサミット出席は昨年のロンドンに次いで2度目。いよいよ来年はわが東京で。その議長を大平なんかに譲って堪るかって!亮ちゃんに与えたうまいものは生ハムよ。
ホテル・クリヨンの窓からもう革命記念のパレードが見えるというのに、福田さんのサミット論は終わらない。「同行記者の連中にサミットの何たるかを教えなくっちゃ」という康夫首席秘書官の意見具申に従ったのだと康夫。
コンコルド広場の上空を飛行機が盛んに飛んでいった。革命記念日の行事はとっくに始まっているのに、総理の講義は終わらない。失礼ながら、総理同行の記者連中は特派員経験の無い内政記者だから、パリは私と同じように生まれて初めてという人がほとんど。
講義は頭になんか入らない。入らないものをいくら喋っても無駄だ。福田康夫と言う人は、こういうことを無駄だと想わない人らしい。そんな人でも総理大臣の息子だからか今や総理候補だという。いいのかねぇ。
その夜、鴨料理の世界的有名レストラン「トゥール・ダルジャン」で開かれた北原駐仏大使主催の夕食会が、誰かの不用意な発言で森官房副長官の誕生日祝いの宴に切り替わって、酒を飲まない園田外務大臣の不機嫌は頂点に達した。
結局、ボン・サミットを契機に福田総理は「世界が福田を呼んでいる」と自画自賛してみたが、密約反故の立候補は大平と角栄をシンの底から怒らせ、東京始め各地で大ローラー作戦の展開を招いた。
しかも自身は派閥解消を叫んでいるため、大平に似た派閥挙げての集票作戦は展開できなかった。開けてびっくり、福田を世界は呼んでも日本ではお呼びでなかった。
「天の声にも、時には変な声もある」と名言?を吐き、不満足のまま退陣したのであった。とんでもないパリ祭だったわけだ。
大平、鈴木善幸と2内閣では徹底抗戦を続けた福田は総理指名選挙で同一政党(自民党)から複数候補を立てるという日本憲政史を穢す例まで残した。
その誇り高い人柄は魅力的と想った人は多かったろうが、乃公(だいこ)出でずんば=このおれさまが出ないで、他の者に何ができるものかの意=広辞苑=は悪い例をいくつも残した。(文中敬称略)2006.07.14

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