40 福田康夫全人像 渡部亮次郎

世間、注目の人物福田康夫代議士はとうとう70歳(古稀)を迎える(2006年7月16日)。誕生日は昭和11(1936)年7月16日。当時は大蔵省のキャリア官僚だった、群馬県群馬郡金古町足門(現在の高崎市足門町)出身福田赳夫の長男として生まれた。姉は元代議士越智通雄夫人。
福田家は江戸時代には庄屋(村長)をつとめた地元の名門であった。赳夫は小学校のころから神童の誉れ高く、旧制高崎中学を首席で卒業し、第一高等学校から東京帝国大学法学部へすすみ大蔵省に一番の成績で入省した。その第2子として生まれたのが康夫である。
 
父赳夫が大蔵省で官房長、銀行局長(このとき三島由紀夫の上司だった)を経ている頃である。康夫の公式サイトによれば、昭和24年3月 学芸大学附属小学校卒となっているが、この前年の昭和23(1948)年9月13日、主計局長の父は、昭電疑獄との関連を疑われて逮捕されている。小学校5年生だったろう。
康夫の公式サイトでは「戦争中の疎開のため群馬県群馬町金古小学校、大宮市南小学校、高等師範附属小学校、渋谷区猿楽小学校などに学ぶ 」となっているが、既に学芸大学附属小学校に移っていたはずだ。父親の逮捕がトラウマになっているかどうかは分からない。
昭和27年3月 麻布学園中学校卒。昭和30年3月、麻布学園高等学校卒と、中学、高校を通じての有名校狙いのコースだったが、入学したのは早稲田。弟2人も早稲田卒。昭和34年3月 早稲田大学政治経済学部経済学科を卒業石油会社(丸善石油)入社。
昭和37年3月から米国駐在(2年間)という経験もあり、英会話はかなり堪能だ。あるいはこの経験が外交好きの素地になっているかもしれない。帰国後は課長になっていた。
昭和47(1972)年の「角福戦争」で父が総理・総裁の椅子を賭けて田中角栄と死闘を展開しても、表には絶対、出てこなかった。「うちの康夫はなんだって、あんなに官僚的(無愛想)なのかなぁ」と父がこのとき嘆いた。
それから4年。田中政権は金権と女性のスキャンダルですぐ倒れ、続く三木政権は、田中・大平正芳・福田聯合による「三木降し」によって倒れ、「大福密約」により、昭和51年11月、父が待ちに待った第67代の総理大臣に就任した。それを機会に石油会社を退社し、衆議院議員福田赳夫秘書となった。
この点に関してフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』は
<1976年 – 1978年 父親の首相就任に伴い、議員秘書、首相秘書官をつとめる。しかし父である福田赳夫は「康夫は政治に向かない。」として、福田康夫に秘書を勤めさせる前は次男を秘書にしており、いずれは次男に自分の跡を継がせようと考えていた。
ところが次男が若くして急死した為に苦肉の策として、長男の康夫に会社を辞めてもらい、自分の後継者として一から育てて行く事を決めた>と書いているが、違う。
次男征夫(いくお)はこのころはピンピンしていた。伊香保温泉旅館に養子に行って「横手」姓になってなお東京で父の秘書をしていたが、福田政権1年目は2人で秘書を続け、2年目は「総理大臣首席秘書官」のポストをあっさり兄に譲った。
征夫が癌で逝去するのは福田政権も終わってかなりあとからである。若い人が誤解に基づいて書いたもののようである。
昭和52年12月、内閣総理大臣秘書官。しかし僅か1年で失職。何しろ、福田総理の任期は大平幹事長との密約で「任期2年」のはずだった。それを押して敢えて大平と争った父親だったが、あえなく敗戦、下野となったのだ。
昭和53(1978)年12月、社団法人金融財政事情研究会理事(平成元年3月迄)とあるが、これは大蔵省(当時)系の公益法人。父親の紹介による腰掛。これから7年間のベンチ暮らしの始まりだった。福田派は安倍晋太郎に代替わり。
1990(平成2)年に父が引退。父はそれまで連続14回当選。選挙区では中曽根康弘とトップ当選争いを繰り広げたが、毎回福田が圧勝。中曽根が首相在任時でも、福田の得票数の方が勝っていた(通算成績・福田の10勝4敗)。という磐石の地盤。平成2(1990)年2月 第39回衆議院議員選挙当選(1期)は楽勝だった。
平成4年6月、衆議院外務委員会理事(平成11年10月迄)は、当時の海部政権を操っていたのが、金丸信・小澤一郎たちだったから、利権の絡んだポストを反対派閥の福田に与えるわけがない。外務委員会所属は福田の必ずしも望まなくても据えられたポストだったろう。しかし、案外、体質に合ったのだ。
あまり書かれないが、総理秘書官時代、実質的に総理をハンドリングしていたのが外務省から来ていた小和田恒(ひさし)秘書官だったことである。小和田は、佐藤内閣の最後に赳夫が初めて外務大臣をした時、条約局から大臣秘書官となった。爾来、横手家との交際は続き、総理大臣秘書官にもなった。康夫と机を並べたわけだ。
小和田が徳仁親王妃雅子(なるひとしんのうひまさこ、旧名:小和田 雅子(おわだ まさこ)、1963年12月9日 – )は、皇太子徳仁親王の妃の父である事は言うまでもない。
 
平成5年4月、日本スリランカ協会会長〔平成12年10月迄〕就任は外交好きを裏付けている。それが証拠に7月に第40回 衆議院議員選挙当選(2期)を果たすや、本人の希望が叶えられて平成7年8月 外務政務次官(平成8年1月迄)を勤めた。
さらに平成8年10月、第41回衆議院議員選挙で当選(3期)するや、衆目の一致により11月、自由民主党外交部会長 となり、党内の外交政策取りまとめ役となった。
平成9年9月、自由民主党副幹事長、11月日本イエメン協会会長〔平成
12年10月迄〕
平成10年8月自由民主党財務委員長、平成11年10月自由民主党経理局長。これで自民党の金庫に急に接近。平成12年6月第42回衆議院議員選挙当選(4期)し、7月、自由民主党政務調査会副会長をしていたところ、森政権の官房長官中川秀直が女性スキャンダルにより辞任。
小泉純一郎(森派会長)の推挙で10月、国務大臣内閣官房長官(森内閣沖縄開発庁長官)となり、続く 13年4月からの第一次小泉内閣でも国務大臣内閣官房長官。平成16年5 月7日に自らの年金掛け金未納問題で自任するまで、4年間に記録を立てた。
平成16年6月 衆議院憲法調査会幹事、日本スリランカ協会会長 、7月(財)日本インドネシア協会会長。
平成17年1月 自由民主党新憲法起草委員会安全保障及び非常事態に関する小委員会委員長。3月(財)日本ユースホステル協会会長 、6月(社)日本カヌー連盟会長。9月、第44回衆議院選挙当選(6期)。衆議院日本国憲法に関する調査特別委員会理事が現在の肩書き。
<在職中は、台湾の李登輝前総統が病気治療目的で来日を希望した際に中国への配慮から、河野外相と共にビザ発給に反対したといわれる。また、北朝鮮による拉致問題に対し終始冷淡な態度をとっていたと家族会は語っている。
中国・韓国など靖国神社参拝に反対している国の意見などにも一定の配慮をすべきこと、憲法改正には周辺国の理解が必要と主張していることなどから、保守層には「中国、韓国、北朝鮮に媚びている」として批判的な者も多い。
特に、文芸春秋とその系列メディアは、官房長官在任期間中ほぼ毎回福田批判記事を掲載したことに激怒し文芸春秋から政府広報の広告を引き揚げげさせたとの報道も一部でなされた(2004年から数ヶ月間文芸春秋の誌面から政府広報が一切無くなった)。
また一般にはハト派と見られているが、官房長官在任中の2002年に「原子爆弾などの核兵器は保有できる」「非核三原則は憲法のようなものだ。しかし(最近の世論は)憲法も改正しようというぐらいになっているから、非核三原則も変えようとなるかもしれない」と、非核三原則の見直しに言及するなどタカ派的な発言も見られる。>(ウィキペディア)
<年金未納が発覚して小泉内閣の官房長官を辞任した後は、政権と距離を置き、第3次小泉改造内閣にも入閣しなかったために、小泉内閣に批判的な一部政治家やマスコミ・知識人などの自民党内外の諸勢力の間に総理就任待望論があり、現在、自民党内の「ポスト小泉」首相有力候補俗に言う麻垣康三)の1人に挙げられている。
これまでのところ、安倍に次いで、2番目に次期首相の座に近い立場にあると言えるが、これまで本人は総裁選への出馬を明言しておらず、一部のメディアなどでの世論調査では出馬を事実上宣言した安倍との支持率の差が再び拡大している。
もともとポストに対する執着心は乏しいとして、出馬しないことを予測する向きもあり、出馬を決断するのか否かを含め、今後の動向が注目される。>(同)
問題は、改革、参拝路線を引き継ぐ安倍に対して、同一派閥ながら、反改革、非参拝を掲げて、反小泉勢力の受け皿になる覚悟が固まるか、否かにある。
反小泉路線を走るとすれば、それは父赳夫が命がけで闘った角栄路線を踏襲するものだから、康夫としては忸怩たるものがあろう。しかも確定的な勝利も保証されていない戦いに挑むクソ力はあるだろうか。〔文中敬称略〕2006・07・09

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