41 醤油の無くなった時代 渡部亮次郎

今はどうか知らないが、30年ぐらい前のニューヨークではカレーの匂いはご法度だった。それを知らずにアパートでカレーライスを作り、管理組合の理事会決定で追放された日本人家庭がある、という話を聞いた。
同時に、日本人なら「香ばしい」と感じる人の多い「醤油の焦げた」匂いも禁止。それを面白がって、友人はニューヨークからオタワ(カナダ)への上空で、スルメをライターで焦がした末に、小瓶に入れた醤油をつけたからたまらない。
女性の客室乗務員が慌てて来たが、友人は口に入れてしまって知らんぷり。この頃は、アメリカ人全体が醤油の美味しさを全く知らない頃だった。
今では健康食として日本食が世界各地で好まれるようになってから、醤油を世界各地で手にいれることが出来るようになった。事実、醤油は現在100カ国以上の国に輸出されており、生産は年14万キロリットルにも達する。大手メーカでは現地生産も行っている。
アメリカ大陸にはじめて足を踏み入れたのは昭和53(1978)年2月。NHKの政治記者から外務大臣秘書官になったところに、永年の友人加瀬英明氏がやってきて「外相秘書官がアメリカを知らないでは話にならない」と、旧知である大臣を口説いて連れ出してくれた。42歳だった。
ロスアンジェルスへ降りて、本場のステーキなるものを注文したら、固いの固くないの話ではない。それにパサパサして喉を通らない。加瀬氏はアメリカは留学で知り尽くしているから、諦めている。このとき「醤油があったらなぁ」とつくづく思った。
そこで翌日は海岸べりのレストランに入って白身の魚をボイルしたものを頼んだが、これまた塩味が不足。いや、マヨネーズかチリソースにまぶして食べろと言うものだった。これで私はアメリカへ来たら、食い物は諦める、と決めた。
そこで、千葉県の有名な醤油メーカーにこの話をしたら、既に醸造のアメリカ進出を決定したとのことだった。
<現在業界最大手のキッコーマン社がアメリカに続いてシンガポールに工場を設けて生産しているように,近年とみに世界の注目を浴び,販路を拡大するようになっている。> (平凡社:世界百科事典)
<日本人海外渡航者数の増加や、海外における日本食のヘルシーイメージの浸透など受け、醤油の輸出量が徐々に増加していった。これに目をつけたキッコーマンがアメリカ合衆国に海外工場新設を決断。
その後も海外での醤油消費量は伸び続け、現在では色々なメーカーが海外に拠点を設けている。そのため、米国において醤油の一般名詞が「キッコーマン」となっている。>(ウィキペディア)
アメリカに対して日本は1941(昭和16)年12月8日に無謀なる戦争を挑み、結局は原爆2発を食らって降参。国民は塗炭の苦しみを強いられた。農村でも食糧難を体験したが、子供心にショックだったのが、醤油が売ってなくなったことだった。
調べてみると、あの頃の醤油の危機的状況とは、戦中戦後の食糧難に伴い主原料である大豆の醤油製造への配給が滞り、醸造元が本来の醤油を作ることが出来なくなったからある。
また、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が醤油の重要性を理解せず、大豆を酸で加水分解した方が効率良く製造できると指導してきたという逸話も残っている。
しかし、1952年の独立回復とともに正しい製造方法による醤油作りの復活が大手メーカーを中心に芽吹き始め、景気回復と共に本来の美味しい醤油が食卓に戻ってきている。ただ、日本人の洋食化・核家族化が進むと共に和食が調理される機会が少しずつ減少し、醤油の消費量も伸び悩み始めている。
醤油の種類と特徴などを調べてみると・・・
こいくち(濃口)
関東地方で発達した最も一般的な醤油で、醤油の生産高の約9割はこれを占め、通常、単に「醤油」というとこれのことである。色々な料理の味付けに使われる。食堂にある醤油は、まずこれと思ってよい。
原料の大豆と小麦の比率は半々程度である。生産地とて、千葉県の野田市や銚子市、香川県の小豆島がある。
うすくち(淡口)
関西地方で多く使用される。こいくちに比べると、色や香りが薄いが、塩分濃度はやや高い。食材の色や風味を生かしやすいため、汁物、煮物、うどんつゆなどに好んで使われる。
原料は、こいくちに比べて小麦の比率が多い。また、圧搾前に甘酒を加えることも大きな特徴である。一般に、こいくちよりも賞味期限が短いので注意。
また漢字で書くときは「薄口」は誤りで、正確には淡口ある。あの野球選手は「うすくち」さんだったかも。主産地は、兵庫県のたつの市(旧・龍野市)である。
たまり(溜り)
風味、色ともに濃厚なものである。刺身につけたり、照焼きのタレなどに向く。原料は大豆が中心で、小麦は使わないか使っても少量である。中京地方や九州地方が主産地である。
さいしこみ(再仕込み)
風味、色ともに濃厚なものである。刺身、寿司などに向く。一度作ったこいくち醤油のもろみを絞り、その絞り汁に麹を加えて(再仕込み)して造る。甘露しょうゆと同義。
しろ(白)
色は薄く、醤油というよりナンプラーのような色である。味は塩分が強く、少し甘みを含む。煮物に向く。原料は大豆が少なく、小麦が中心である。一般に、こいくちよりも賞味期限が短いので注意。主産地は愛知県である。
減塩しょうゆ・うす塩しょうゆ
塩分の割合を通常の醤油より減らしたもの。前者は高血圧や心臓病、腎臓病などの人を対象に、厚生労働省の「特別用途食品」に指定され、塩分は9%と一般の半分。後者は13%で一般の8割程度。通常の醤油から塩分を除去して作る。
このように、醤油は長い歴史の間でそれぞれの地域ごとに独自の風味を持った醤油を開発してきた。このため、日本人は自分の出身地域の醤油の味を好むといわれており、業界の最大手クラスの業者といえども全国規模で商品を出荷する事は極めて困難であると言われている。
例えば九州では、こいくちでも関東のものに比べ甘みが多い。また、刺身醤油に必ず「さいしこみ」を使うことで「九州の醤油は甘口が好まれる」と言われる。NHK時代,九州へ転勤した江戸っ子が東京の醤油確保に苦労していた。
実際に、ごく一部の醤油に砂糖、甘草、ステビアなどの甘味料が添加されているものがある。九州ではこいくちでも「うまくち」と呼称して区別する場合が多い。カルビー製のポテトチップスにも甘口の醤油の味の「九州しょうゆ」味がある。
また、醤油の味によって、料理の基本となる出汁の味や色も変わるので醤油の違いが料理の地域性にも少なからぬ影響を与えている。さらに料理人に至っては複数の地方色のある醤油を混ぜるなどし、独特の味を作り出す者もいる。
さて醤油の歴史である。伝承によれば、13世紀頃、南宋鎮江(現中国江蘇省鎮江市)の金山寺で作っていた、刻んだ野菜を味噌につけ込む金山寺味噌の製法を、紀州(和歌山県)の湯浅興国寺の開祖法燈円明國師(ほうとうえんめいこくし)が伝え、湯浅周辺にも金山寺味噌作りが広まった。
この味噌の溜(たまり)を調味料として使うとおいしいことを発見したことから、液体の醤油作りが始まった。この「たまり」が、現代につながるたまり醤油の原型とされている。
これに関しては伝承のみで、当時の文献や証拠品による裏付けがないが、ある程度以上には真実を含んだ伝承だと考えられている。
しょうゆという語は15世紀ごろから用例が現れる。1470年頃の「文明本節用集」に、漿醤に「シヤウユ」とルビが記載してある。1597年、「易林本節用集」という辞書で、はじめて「醤油」という語が使われた。
日本国外への輸出は1647年にオランダ東インド会社によって開始された。伝承によればルイ14世の宮廷料理でも使われたという。フランスでの日本産醤油に関する記述は『百科全書』(1765年)に現れる。
江戸時代初期までは、日本の醤油の主流はたまり醤油であった。しかし、たまり醤油は製造開始から出荷まで3年かかり、生産量が需要に追いつかなかった。人口が増加し、食品の大消費地になっていた江戸近辺で、1640年代頃の寛永年間に、1年で製造できるこいくち醤油の生産が開始された。
うすくち醤油は、1666年、現在の兵庫県で、円尾孫右兵衛によって開発されたとされる。これらそれぞれの醤油の作り方は省略する。
上記のとおり、日本の醤油は、中国で生産されていた醤、醤油の製法が日本に伝えられ、日本での製造が始まったという説が有力ではあるが、弥生時代に食塩に漬けておいた食品に天然酵母がとりついて醤油に似た食品が生まれ、ここから醤油が中国とは別個に発明されたという説もある。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia) 2006・06・30(頂門の一針より転載 許諾済み)

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