ロシアの詩人・プーシキンはイルクーツクを「シバリアのパリ」と褒めている。パリを訪れていない私は「金沢は北陸の京都」という類いだと思うしかない。アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキン(1799-1837)は19世紀はじめのロシア文学を代表する詩人だが、イルクーツクからモスクワの友人に宛てた手紙の中で「イルクーツクは素晴らしい街です。シベリアのパリといえる」と書いた。
もっとも、これは八年前のシベリア旅行で、ガイドの女子学生から教えて貰ったもので、プーシキンの書簡をみたわけではない。19世紀のイルクーツクは石畳の街路や石造りの家があったという。シベリアの中心的な政治都市だから、ロシア人のお国自慢もあるのだろうが、整った美しい街であるのは、二度訪れたから知っている。
最初の旅では、アンガラ河畔に建つインツーリスト・ホテルに泊まった。南側の部屋からアンガラ河が見える。部屋に籠もっていても仕方ないので、ガイドの女子学生にチップをはずんで、二人で街にでた。キーロフ広場からアンガラ河に沿って散策すると、スナメンスキー修道院がある。
イルクーツク大学の日本語学科に在籍する女子学生が、たどたどしい日本語で説明してくれるのだが、どうも要領を得ない。試しにブロークンな英語で喋ると、この方が通じる。私のイングリッシュは、ロンドンでもニューヨークでも通用しなかったが、ロシアでは結構、役に立った。相手もブロークン・イングリッシュだからであろう。
アンガラ河畔で美しい少女と出会った。ガイドの女子学生と友達であった。二人はたちまちロシア語でお喋りしだしたが、こちらにはさっぱり分からない。時々チラッと私の方をみる。思い切って、写真を撮らせてくれ、と頼んでみた。はにかんだ様子をみせるが、心よくモデルになってくれたのが、「ブリヤートとモンゴル」に載せた写真。
この少女と別れた後に「彼女は白系ロシア人か?」と女子学生に聞いてみた。白系ロシア人にしては、背が低い感じだが、髪の毛が黒くない。「お父さんもお母さんもブリヤート人」という。
ウラジオストクはロシア太平洋艦隊の母港だったので、久しく外国人の立ち入りが禁止されていた。1992年以来、外国人も入れるようになった。それでも海岸通りを歩くとロシア海軍の水兵に、よく出会う。
極東国際大学で日本語を教える女性講師がガイドについてくれた。ちゃんと名刺まで持っている。大学の給料は1000ルーブルにしかならないので、不足分をガイドのアルバイトで補っているという。
この女性は「ウラジオストクは風の街」と教えてくれた。一年中、強い風が吹いている。イルクーツクから空路三時間でウラジオストクの空港に着いたが、着陸時に強い風に煽られ、二度、三度も着陸をやり直した怖い経験がある。シベリア鉄道は、長旅になるが、その方が安全だと思っている。
この女性講師も背が低く、ブリヤート系であった。日本に留学した経験があるので流暢な日本語を喋る。ブロークン・イングリッシュを使う必要がなかった。今では外国資本と提携したホテルが増えている。台湾との合弁事業で建てられたホテルに泊まったが、日本のビジネスホテルと違わない。街には日本料理店まである。
ウラジオストクが風の街なら、ハバロフスクは「坂の街」である。奇妙なことだが、自転車が街にはない。坂を下るには自転車でも、一向構わないのだが、長い坂を自転車で上るのは、屈強のロシア人も敬遠する。
八年前にハバロフスクを訪れた時は、極東の玄関であるこの街は、寂れた風情に包まれていた。エリツイン大統領に対する怨嗟の声すら聞かされた。三年前にハバロフスクを訪れたら、坂の街が活気を取り戻していた。街いく市民の服装が目立って良くなっている。
九月は入学式のシーズン。着飾った母親に手を引かれて、校門を入る児童たちは揃いの背広姿。日本の私立小学校の入学式を彷彿とさせられた。プーチン大統領の国内政策は市民レベルでは歓迎されている。(2006・7・16)
42 シベリアのパリ、風の街、坂の街 古沢襄

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