東海林太郎しょうじ たろう(1898-1972)秋田市出身。秋田中(現県立秋田高校)から東京音楽学校ヴァイオリン科に合格。しかし南満洲鉄道(満鉄)に居た父に猛反対されて,断念。早稲田大学商学部へ進み、卒業してすぐに満鉄の社員として8年間勤務。
ところが早大在学中から佐野学に師事して共産主義思想に傾倒する。
<佐野 学(さのまなぶ 1892年2月22日 – 1953年3月9日)は昭和初期の日本共産党委員長。獄中から転向声明を発表し、大きな反響を呼んだ。
東京帝国大学法学部卒、新人会に参加。卒業後、後藤新平の伝手で満鉄東亜経済調査局に勤務した後、早稲田大学で教鞭を取る>
東海林太郎はこの時に教え子となって左傾思想にかぶれた。当時はそれをアカにかぶれたと言って、敬遠された。
東海林は卒業間際に庄司久子と結婚した。後に静と再婚。
東海林は1923(大正12)年9月南満州鉄道株式会社に入社、庶務部調査課に勤務。関東大震災の時である。
<1923年の関東大震災(かんとうだいしんさい)は、1923年(大正12年)9月1日の午前11時58分(以下日本時間)に、伊豆大島、相模湾を震源として発生した直下型の大地震(関東地震)による災害である。
東京都・神奈川県・千葉県・静岡県の南関東各地を中心に、関東地方の広い範囲に大きな被害をもたらした。
死者・行方不明者10万5千余人、避難人数109万人以上、住家全壊10万9千余、住家半壊10万2千余、住家焼失21万2千余(全半壊後の焼失を含む)
東海林は既に満洲に渡っていたようだ。入社後「満州に於ける産業組合」を脱稿するが、当然ながらあまりにも左翼的ということにより、1927年、鉄嶺の図書館に「左遷」される。
図書館長は「出世」だと NHK深夜便は調査不十分の放送をするので立腹するという友人は多い。図書館には4年もくすぶっていた。
一時期は特高(特別高等警察=日本共産党員或いは共産主義者取締り警察官)にマークされるほどの活動的共産主義者であったという。
満鉄勤務ながらクラシック歌手への夢を捨て切れずに退職して上京。歌手として売り出すまで弟三郎と早稲田鶴巻町で中華料理店を経営。そこに早稲田出身の政治家河野一郎が客として訪れたという話を河野から聞かされたような気がする。
声楽を下八川圭祐に師事し昭和8年に時事新報の音楽コンクールの声楽部門で「我恨まず」(シューマン)「仮面舞踏会」からのアリア「レナートの詠唱」を独唱し入賞した。
34歳で歌手に転身というわけ。荘司史郎などの芸名で一時期、コロムビアなどで歌っていた。
しかしコロムビアでは松平晃を売り出すため、東海林との契約は断った。9年、キング専属だったのだが、1曲だけとの依頼でポリドールで吹き込んだ「赤城の子守唄」が大ヒット。クラシック歌手の夢と現実の乖離である。
同曲のアトラクションのため、日比谷公会堂で白塗りで浅太郎を演じるなど、とても晩年のイメージから想像がつかない奮闘ぶりを見せるが、その際に東海林に背負われる子供役だったのが後年のスター高峰秀子だった。秀子を養女に考えたこともある。
<高峰 秀子(たかみね ひでこ、1924(大正13)年3月27日 – )は函館市出身の女優、エッセイスト。愛称デコちゃん。夫は映画監督、脚本家の松山善三。本名は松山秀子>。82を過ぎて麻布でご健在である。
<1929年映画『母』に子役でデビュー、1979年に引退宣言。引退後は普段の生活に根ざしたエッセイを多数発表している。>
ところで東海林は澄んだバリトンを生かして日本調歌謡で東海林太郎〔本名〕時代を到来させた。また、「谷間のともしび」など外国民謡においても豊かな歌唱力を示した。
島崎藤村の「椰子の実」を最初に歌ったのも東海林である。しかし売れるのは股旅物などとあっては不本意ながら流行歌手の道を歩まざるを得なかった。
その後も「一つ山越しゃ、ロシアの星が」の歌詞を「他国の星が」に改めた「国境の町」も大ヒットし歌手としての地位を確立した。「夜が冷たい」の歌詞を文法がおかしいと作詞者に猛烈に抗議し、不承不承に吹き込んだ「旅笠道中」。
長谷川一夫の映画「雪之丞変化」の主題歌「むらさき小唄」、野崎観音〔大坂・大東市〕のPR盤として制作された「野崎小唄」、軍歌という呼称を嫌って戦時歌謡を主張し続けた「麦と兵隊」など次々とヒットを飛ばした。
ところが、敗戦後の一時期、戦前のヒット曲が軍国主義につながる国粋的なヤクザものは禁止され進駐軍から睨まれ不遇の時代が続いた。ビクターへの入社も、ビクターが竹山逸郎を売り出す事からられ、レコード会社も弱小のマーキュリーなどを転々として恵まれなかった。
1946(昭和21)年ポリドール復帰第1作が「さらば赤城よ」。1949年キングレコードへ復帰。1953年マーキュリーへ移籍。
その後、次第に地方公演で人気を回復、1957年、東京浅草国際劇場で「東海林太郎歌謡生活25周年記念公演」を開催。1963年に任意団体(当時)日本歌手協会初代会長に就任。
空前のなつかしの歌声ブームのなか東海林太郎の人気が復活し、懐メロ番組に出演したりして脚光を浴びた。
しかし健康に問題を抱えた。昭和23、30、39年にそれぞれ直腸ガンの手術を行って、28年には最愛の妻の静を亡くすなど私生活でも苦難の日々であった。渡部は昭和28年秋、秋田高校創立80年記念祭に先輩を招聘する計画を立てたが無視された。
終戦近くから南軽井沢に住み、大好きなクラシックのレコードをボリュームいっぱいにかけたりしていたが、晩年の数年間は仕事の関係で東京でのホテル暮らしが多く、46年7月からマネージャーの住む東京・立川市の羽衣町3丁目に引越した。
地元に溶け込もうと、付近をよく散策したり、チャリティコンサートを開き収益を地元の障害者施設に寄付するなどした。しかし体調悪化は抜き差しならないところまできていて、燕尾服の下に血の滲んだ晒しを巻いてステージをつとめ、薬の服用から顔が紫色になるために、人前では化粧をしていたという。
昭和40(1965)年に紫綬褒章、44年に勲四等旭日小綬章、47年には勲三等瑞宝章を受章。
同年9/26午後2時半に立川市内の知人宅で、調子の悪そうな歩き方を心配したマネージャーに「大丈夫ですか」と問われて、「眠いだけだよ」と横になり、そのまま意識不明となり、9/27午前には病院へ入院。
次男、妹の手を握り、数人のファンに見守られて10/4午前8時50分に立川中央病院で死去。享年73。
最後のレコードは46年10月の「ある少尉の遺書」と「わが命暁まで」のカップリングとなった。「東海林太郎後援会」「東海林太郎歌謡芸術保存会」のメンバーは3000人を数え、中高生などの若いファンも多く、47年10/19午後1時からの青山葬儀所での葬儀には佐藤首相など多数が参列した。
「佐藤栄作日記〔朝日新聞社〕第5巻」には「一時から東海林太郎君歌手協会葬に出席して協会顧問として弔詞をよむ。秋田市出身のいわれをもって石田博英君も弔詞。その他古賀政男、ビクター等等で盛葬だった」とある。
秋田市の西船寺に眠る。ロイド眼鏡に燕尾服、直立不動で歌うスタイルは有名だが、「場末のキャバレーでもコンサートのつもりで歌う」「歌の心をつかみ、歌の美しさを知るために」直立不動で歌っていると語るなど、生涯、歌に関する真摯な姿勢は変わらなかった。
毎日1時間の発声練習を死の直前までかかさず、病床につく数日前までテレビ録画の仕事をしていた。「ステージは一尺四方の道場」「シューベルトを歌う心で歌謡曲を歌う」と語り、ステージの4時間前には必ず食事を済ませたり、ホテルもピアノのない部屋には泊まらないなど、徹底したプロ意識を見せていた。
「心の底から歌っていない」演歌は技巧に走るから嫌い、リサイタルも嫌い、戦後の歌手は「歌の本質を知らない」と評価していなかったが、ピンキーとキラーズの今陽子だけはお気に入りだった。
酒豪としても知られ、歌手協会でも「良きにはからえ」の親分肌の人間であった。どんな目下の人間にも礼儀正しく接する人で、読書家でもあった。藤山一郎との不仲も有名である。
直立不動のスタイルは剣豪宮本武蔵を彷彿させるものであり、「一唱民楽」の言葉のごとく、歌は民のためという信念を持ち、あの常に真剣勝負の姿の歌唱魂は激動の昭和を生き抜いた時代精神を表している。
また、彼の人生は癌との闘いのそれでもあり、病魔を克服しての音楽人生だった。遺した名曲のリスト。
昭和9年 赤城の子守唄
山は夕焼
国境の町
昭和10年 旅笠道中
むらさき小唄
野崎小唄
お駒恋姿
昭和11年 お夏清十郎
椰子の実
昭和12年 すみだ川
昭和13年 上海の街角で
麦と兵隊
昭和14年 名月赤城山
昭和16年 琵琶湖哀歌(小笠原美都子と)
戦後 楡の花咲く時計台など多数。
「人物昭和流行歌史・直立不動の精神-東海林太郎」(菊池清麿)及びフリー百科事典ウィキペディア、誰か昭和を想わざる(作者不詳)等を参考。2006・07・16
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