<昭和天皇、A級戦犯合祀に不快感…宮内庁長官メモ
昭和天皇が靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)に関し、「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」などと語ったとするメモを、当時の富田朝彦宮内庁長官(故人)が残していたことが20日、明らかになった。
昭和天皇はA級戦犯の合祀に不快感を示し、自身の参拝中止の理由を述べたものとみられる。参拝中止に関する昭和天皇の発言を書き留めた文書が見つかったのは初めて。
遺族によると、富田氏は昭和天皇との会話を日記や手帳に詳細に記していた。このうち88年4月28日付の手帳に「A級が合祀され その上 松岡、白取までもが」「松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々(やすやす)と 松平は平和に強い考(え)があったと思うのに 親の心子知らずと思っている だから私(は)あれ以来参拝していない それが私の心だ」などの記述がある。
「松岡、白取」は、靖国神社に合祀されている14人のA級戦犯の中の松岡洋右元外相と白鳥敏夫元駐伊大使とみられる。2人は、ドイツ、イタリアとの三国同盟を推進するなど、日本が米英との対立を深める上で重大な役割を果たした。
また、「松平」は終戦直後に宮内大臣を務めた松平慶民氏と、その長男の松平永芳氏(いずれも故人)を指すとみられる。永芳氏は、靖国神社が78年にA級戦犯合祀を行った当時、同神社の宮司を務めていた。
昭和天皇は戦後8回、靖国神社に参拝したが、75年11月が最後になった。
その理由を昭和天皇自身や政府が明らかにしなかったため、A級戦犯合祀が理由との見方のほか、75年の三木首相の参拝をきっかけに靖国参拝が政治問題化したためという説などが出ていた。
富田氏が残したメモにより、「A級戦犯合祀」説が強まるものとみられる。靖国神社には今の陛下も即位後は参拝されていない。
富田氏は74年に宮内庁次長に就任。78年からは同庁長官を10年間務め、2003年11月に死去した。>読売新聞がことの重大性に鑑み、特種の日本経済新聞を2006年7月20日付け夕刊で追いかけた。「信頼性高い」「短絡的に不快感と捉えるな」という識者の談話もついている。
インターネットのフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を見ると、一応納得できる専門家の研究や資料を使って執筆しているので、参考に供したい。
<昭和天皇(しょうわてんのう、1901年(明治34年)4月29日~1989年(昭和64年)1月7日)は、日本の第124代天皇。名は裕仁(ひろひと)。生没年が確認されている歴代天皇の中で、神話上の天皇を除き、在位期間および享年が最長である。
田中義一首相を叱責
満州某重大事件の責任者処分に関して、田中義一内閣総理大臣は責任者を厳正に処罰すると天皇に約束したが、軍や閣内の反対もあって処罰しなかった時、昭和天皇は「それでは前の話と違うではないか」と田中の食言を激しく叱責した。
その結果、田中内閣は総辞職、恐懼した田中は程なく死去したとされる。この事件は、昭和天皇に、立憲君主制の下で、その後の政治的関与を臆病にさせたエポックメーキングな出来事であった。
なお『昭和天皇独白録』には、「辞表を出してはどうか」と天皇が田中に辞職を迫ったという記述があるが、当時の一次史料(『牧野伸顕日記』など)を照らしあわせるとそこまで踏み込んだ発言はなかった可能性が高い。
二・二六事件
1936年に起きた陸軍皇道派青年将校らによる二・二六事件の際、昭和天皇は「我が頼みとする大臣達を殺すとは我が首を真綿で締めるが如き行為だ、こんな奴等を赦してやる必要などない」と激怒、「お前達がやらぬなら私が近衛師団を率いて直接鎮圧に当たる」と発言したとされる。
これによって決起軍は反乱軍と認定され、事件は速やかに解決に向かったのである。しかし、毅然とした態度に当時独走傾向が強かった一部軍人の間に、さらなる独走傾向を強めたとされる。
この時の発言を、太平洋戦争終結のいわゆる“ご聖断”と合わせて「立憲君主としての立場(一線)を超えた行為だった」とか「あの時はまだ若かったから」と後に語ったと言われている。なお、1975年にエリザベス女王が来日した際、首謀者真崎甚三郎の息子を昭和天皇は自らの通訳に選んでいる。
真珠湾攻撃・開戦詔勅
1941年9月6日の御前会議で、対米戦は避けられないものとして決定された。御前会議では発言しないことが通例となっていた昭和天皇はこの席で敢えて発言をし、明治天皇御製の「四方の海 みな同朋(はらから)と 思う世に など波風の 立ちさわぐらん」
(四方の海はみな兄弟と思うこの世になぜ波風が立ち、騒ぎが起こるのであろう。) という短歌を詠み上げた。
人間宣言
1946年1月1日に発表された年頭の詔書、いわゆる人間宣言で、天皇の神格を自ら否定した。
戦争責任
明治憲法下において最高権力者と規定されていたため、戦争責任を問う声はあったが、天皇は日本統治に利用すべき存在とされ、連合国(とくにアメリカ)から戦争責任を問われることはなかった。この事は後にも一部で論争を引き起こした。
敗戦前の大日本帝国憲法(明治憲法)のもとでは、第11条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」を根拠として、軍の最高指揮権である統帥権は天皇大権とされ、また第12条「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」を根拠に軍の編成権も天皇大権のひとつとされた。
政府および議会から独立した、編成権を含むこの統帥権の独立という考え方は、1930年のロンドン海軍軍縮条約の批准の際に、いわゆる統帥権干犯問題を起こす原因となった。
統帥権が、天皇の大権の一つ(明治憲法第11条)であったことを理由に、1931年の満州事変から日中戦争、さらに太平洋戦争へと続く、いわゆる十五年戦争の戦争責任をめぐって、最高指揮権を持ち、宣戦講和権を持っていた天皇に戦争責任があったとする主張と、明治憲法第3条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と規定された天皇の無答責を根拠に(あるいは軍事等についての情報が天皇に届いていなかったことを根拠に)、天皇に戦争責任を問え得ないとする主張とのあいだで論争があるが、天皇に戦争責任があったとする主張は大勢とはなっていない。〔大日本帝国、大日本帝国憲法を参照〕
また、美濃部達吉らが唱えた天皇機関説によって天皇は「君臨すれども統治せず」という立憲主義的君主であったという説が当時の憲法学界の支配的意見であったが、当時の政府は、「国体明徴声明」を発して、統治権の主体が天皇に存することを明示し、この説の教授すら禁じた。
敗戦後の極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)において、ソビエト連邦、オーストラリアなどは天皇を戦争犯罪人として裁くべきだと主張したが、昭和天皇の責任感に満ちた態度に感銘を受けた連合国最高司令官であったマッカーサー元帥らの政治判断(昭和天皇を被告とすることは、日本国民の感情を著しく損なわせ占領軍に反発し、円滑な占領政策が行えなくなるとの懸念)と、
天皇制の護持の必要性(このため、松平康昌・田中隆吉らはGHQへ情報を提供し積極的な協力をした)によって戦犯ではないと判断された。
なお、昭和天皇が初めてマッカーサー元帥を訪問した時に、マッカーサー元帥は(マッカーサーメモによると)当初命乞いするのではないかと考えていたのに対し、昭和天皇は「私はどうなっても構わない、責任は自分がとるので、国民を助けてほしい。」と語り、マッカーサー元帥を大いに感動させた。
この会談内容については全ての関係者が口を噤み、否定も肯定もしない為、真偽の程は明らかではなかった。これは、マッカーサー自身は、昭和天皇が全責任を負う旨の発言をしたという回想をしていたのだが、会見記録にはその記録がなかったため、論議を招いたものである。
昭和天皇自身は、1975年に行われた記者会見でこの問題に関する質問に対し、「男同士の約束ですから」と肯定も否定もしなかったが、現代史家の秦郁彦氏が、会見時の天皇発言を伝えるアチソン米国務省政治顧問の国務省宛電文を発見し現在では発言があったとする説が有力である。
また、会見録に天皇発言が記録されていなかったのは、重大性故に記録から削除されたことが通訳を務めた松井大使の手記で判明し、藤田侍従長の著書もこの事実の傍証とされている。>
<「天皇参拝せぬ靖国に首相が行く矛盾」 カーティス教授
<ジェラルド・カーティス米コロンビア大学教授(政治学)の話>
昭和天皇が、靖国神社のA級戦犯の合祀に強い不快感を示していたことが明らかになったことの意味は大きい。靖国神社参拝問題が、外国にいわれて問題になったのではなく、もともと日本国内の政治問題であることが明らかになった。
A級戦犯を合祀することは戦争を肯定する象徴的な意味がある。外国から見てもおかしいし、日本の天皇から見てもおかしいということだ。天皇陛下も参拝しない靖国に総理大臣が行くべきだというのは矛盾している。
天皇の発言が明るみに出たことによって、国内問題としての靖国神社参拝問題がもっと議論されるのではないか。
戦中戦後を通じて天皇だった昭和天皇が「天皇陛下万歳」を叫んでなくなった兵士がまつられている靖国神社の参拝をやめるほど、A級戦犯合祀にこだわっていた。
天皇の言葉を次の総理候補も真剣に考えて、靖国神社問題の新しい解決のあり方を考えるべきだ。>〔asahi com 2006年07月 20日15時18分〕
天皇のなさらぬことを総理大臣がする事は「矛盾」だというのはおかしい。天皇の通りのことをしろというのは、主権在民の日本国憲法に照らして、それこそ如何なものか。2006・07・20
56 昭和天皇の不快感問題 渡部亮次郎

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