サッチャー回顧録を読むと「ウエット」という言葉が何度も出てくる。ダウニング街の主となり「鉄の女」といわれたサッチャー首相は、英国病に陥ったイギリス経済の再生に政治生命を賭けたが、それの抵抗勢力となったのは、保守党内外の「ウエット」たち。
広辞苑で「ウエット」をひくと、「湿った、濡れた」の意味と同時に「情にもろきさま、感傷的なさま」と出てくる。英和辞典の日本語は広辞苑などを典拠としているので、あえて持ち出したのだが、サッチャーのいう「ウエット」のニュアンスが必ずしも表現されていない。
私なりに解釈すると「まあまあ主義の妥協派」という言葉がぴったりする。つまり改革を推進しようとすると、ドラスチックな手法に抵抗する現状維持派が生まれるが、この傾向をサッチャーは「ウエット」と称した。
「ウエット」の反対語は「ドライ」だが、これもサッチャー改革を表現する言葉としては不十分。「鉄の女」といわれたサッチャーは、「ドライ」よりも強烈な改革手法つまり不退転で妥協しない強さがあった。
「ウエット」と「ドライ」の対比には、もう一つの英国の歴史的事実が存在する。
ナチスドイツの勃興期に江尻進同盟通信社ベルリン特派員は、英国経由でベルリンに赴任したが、ロンドンの空気はチェンバレン内閣のもとで、平和を謳歌している和やかものだったと回想している。日本で感じた緊迫する欧州の雰囲気などは、かけらも感じられなかったという。
「ベルリンでは戦争切迫論ばかり横行しているが、騙されてはいけない。英国で観察していると、戦争は起こらない」というのがチェンバレン内閣の判断だと教えられて、ベルリンに向かった。「武力紛争や戦争は起こしてならないし、また起こらない」というのがチェンバレン首相の判断であった。
これに対してチャーチルは「平和維持の手段としては、ヒットラーに力で対抗するか、屈服するか、どちらかしかない」と厳しい現状認識をして、チェンバレンと対立した。今の韓国と北朝鮮の政治状況に似通ったところがある。
チェンバレンはヒットラーに対する融和策を打ち出し、これを弱腰とみたヒットラーはオーストリアに進駐し、チェッコスロバキアに食指を動かした。それをみたチェンバレンは自らドイツに飛んで、ヒットラーをなだめ役をつとめ「チェッコ全領土を即時ドイツに割譲する」提案をした。強腰でヒットラーを追い詰め、欧州戦争を招くより、チェッコ全領土を餌としてヒットラーに与える妥協の道を選んだことになる。
この時にチャーチルは「小国を狼に投げ与えることによって安全が得られると信じるのは致命的な誤りである」と酷評し、ナチスドイツとの戦争が避けられないと覚悟を決めている。これが世にいうミュンヘン協定の内幕だった。
チェンバレンの態度は、まさに「ウエット」そのもの。英国病を克服したサッチャーの足跡は、「ウエット」との断固たる戦いで彩られた。歴史の教訓が頭の中にあったと思う。さて日本に
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