7月25日は作曲家古賀政男の祥月命日だった。祥月命日とは一周忌以後における故人の死去の当月当日。正忌。正命日。(広辞苑)。昭和の作曲家にして国民栄誉賞受賞者の古賀政男(こが まさお)は1904(明治37)年11月18日に生まれ、1978(昭和53)年7月25日にこの世を去った。享年73だった。
偉大な作曲家だが音楽学校を出ていない。すべて独学である。それでいて国民的な作曲家としての地位を確立。多くの流行歌をヒットさせた。東京芸大出身でクラシック正統派の藤山一郎から、演歌の女王・美空ひばりまで幅が広い。その作品は5000曲とも言われている。
しかも彼は決定的に貧しく父親の愛を知らず、幼少期を朝鮮で過ごした。古賀政男は福岡県三潴郡田口村(現、大川市)に生まれた。生家は記念物として現在、大川市に復元されているが、少年は7歳で父を失ったため、兄を頼って母と共に朝鮮に渡り感情起伏の激しい少年時代をすごした。
故郷喪失の悲しみが、のちの名曲「人生の並木路」のモチーフとなった。朝鮮ではまず仁川へ、そのあと京城(ソウル)へ。従兄弟から大正琴をもらったのもこの頃である
初めてマンドリンを手にしたのは(京城善隣商業学校3年のとき)のときだった。一番仲のよかった兄からマンドリンを送られ、音楽の夢をより炎のように燃えあがらせた、と書く人はいる。しかし兄弟たちは決して裕福ではなかったはずだから、古賀が後年も少年時代を懐かしがって見せたことはない。
しかし朝鮮半島のメロディーには深く感化された。そのせいか、後年、作曲家として作る様々な歌謡曲について在日の人たちは一様に古賀メロディーに郷愁を誘われた。それがいつの間にか古賀自身が在日の星と囁かれたものだと、放送で苦笑していた。
たとえば1950(昭和25)年、朝鮮動乱に心を痛めて、丘 灯至夫と作った「涙のチャング」(小畑 実唄)は朝鮮半島に伝わる打楽器チャングを使い、土着のメロディーで味付けするなど、少年時代を半島で送った古賀ならではの作品に仕上がっている。
それなのに25日午前3時からのラジオ深夜便でNHKのアンカー国井雅比古氏は、折角、古賀政男特集を放送しながら、「今日が古賀さんの祥月命日」とは一言も言えない不勉強さ、不義理、至らなさ、官僚的。放送に血が通ってないのだ。
NHKが名誉を回復できない本当の原因を知ったような気がした。番組に対して、担当者の誰もが本当の愛を注いでないのだ。涙のチャングが朝鮮動乱を悲しんだ唄、というのも知らない。小畑が韓国・朝鮮人という解説もいない。
いわばト書を書く人(ディレクター)とアナウンサーを兼務するからわざわざ「アンカー」などという肩書きを工夫したわけだろう。だからアンカーはディレクターの分も勉強してスタジオに入らなければいけないのに、手抜きをしているのだ。
聞いたり見たりの聴取者は「手抜き」には敏感。NHK全体、全員が自分を守るのに急で、番組、組織を自分ひとりで守るのだと言う決意が何処にもない。真面目じゃない、ふざけている、とハラが立つから不払いが広がったのだ。
話を戻す。京城善隣商業学校を出て大阪の商店に勤めたのち、1923年に苦学して東京の駿河台にある明治大学に入学し、明治大学マンドリン倶楽部の創設に参画した。ただし、もちろんこの頃も作曲家意識はない。
昭和3年夏、古賀は謎の自殺未遂を図る。宮城県蔵王の夕暮れを見て「影を慕いて」の詩が浮かんだと言われている。だとすれば原因は失恋? その年の秋の定期演奏会は明治記念館講堂で盛大に開催された。
マンドリンと管楽器との融合、佐藤千夜子(東京音楽学校=現東京芸大中退、山形県出身)の日本歌曲の独唱など今までに無い斬新的な演奏会だった。このとき佐藤千夜子と知遇を得たことは古賀の人生を大きく変えることになる。
卒業後の1931年、日本コロムビア専属となり、「作曲家古賀政男」の誕生となった。古賀が当初作曲に自信が無く文芸部の社員を希望したが、結局作曲家として契約したからである。
『酒は涙か溜息か』、『丘を越えて』、『影を慕いて』の3曲がSPレコードで発売され、以降数々のヒット曲を世に送り出した。いずれも藤山一郎の声楽技術を正統に解釈した歌唱によるものである。お陰で学生増永丈夫は流行歌手藤山一郎となった。
クルーン唱法で古賀政男のギター曲の魅力を伝え、その一方で張りのある美声で古賀メロディーの青春を高らかに歌った。『丘を越えて』は大ヒットした。翌年『影を慕いて』が藤山一郎の歌唱によってリバイバルされ大ヒットする。
豊かな声量をメッツアヴォーチェにした名盤が出来上がった。だが、藤山一郎は東京音楽学校卒業後、ビクターへ行く。 1933年、松平晃が歌唱した『サーカスの唄』がヒット。少年時代に聞いたジンタの響きが曲想に生かされた。
しかし、それ以後はビクターの佐々木俊一、コロムビアでは江口夜詩、1934年に入ると、ポリドールの東海林太郎の登場などがあり、この頃、古賀政男はスランプに陥った。離婚騒動などもあり、体を壊し、昭和8年の晩秋から翌年にかけて伊東で静養した。
1934年、古賀政男はコロムビアからテイチクに移籍。事業経営と創作に手腕を発揮した。ビクターから迎えた藤山一郎、日本最高峰のジャズシンガーであるディック・ミネ、楠木繁夫、美ち奴などを擁し、『緑の地平線』『二人は若い』『東京ラプソディー』『あゝそれなのに』『青い背広で』『人生の並木路』など古賀メロディー黄金時代を築く。
1938年秋、外務省の音楽文化親善使節として渡米。渡米直前にコロムビアに復帰した。1939年秋、アメリカNBC放送で古賀政男の作品が取り上げられ全米にそのメロディーが流れた。帰国してみたら、代々木の家が弟によって売られていたと言う事件があった。
コロムビアで再びヒット曲を飛ばす。『誰か故郷を想わざる』『目ン無い千鳥』『新妻鏡』『なつかしの歌声』等々・・・。映画音楽を中心に第3期古賀メロディー黄金時代を築く。戦後は、終戦直後の廃墟、焼け野原に愛情の歌声が湧き上がるような歌を作曲することを念頭におき創作活動を再開した。
1948年に近江俊郎が吹込んだ『湯の町エレジー』が大ヒット。朝鮮特需景気を背景にお座敷小唄でもユニークな作品を作った。とくに神楽坂はん子の芸者ワルツは元早稲田大学教授西條八十との作品である。
浪曲界から村田英雄を引っ張って歌謡歌手に仕立てたが、焦った村田が折から登場した新人作曲家船村徹を頼って「王将」をヒットさせ、一時,破門にした事もある。 1960年代に入り美空ひばりが歌った『悲しい酒』は戦後の古賀メロディーの代表曲である。また、『柔』は美空ひばりが歌いレコード大賞を受賞した。
1964年の東京オリンピックに先立って全国から募集された詞に曲をつけた東京五輪音頭が大流行した。
「古賀メロディ」とよばれるこれらの曲は、初期はマンドリン・ギターなどの影響、ジプシー音楽技法による作品があったが、1936年に発表した『愛の小窓』以後、洋楽調から邦楽的技巧表現の傾向が強まり、1955年以降は演歌の作曲家のスタンスを確立した。
伴奏は、自ら指揮するマンドリンオーケストラ、ギターアンサンブル、三味線、ギター、マンドリン、大正琴などを使用し、朝鮮民謡や大陸音楽の影響も少なからず受けたという。
少年時代の叙情核、マンドリン・ギターのクラシック音楽などその楽曲はセンチメンタリズムに終始することなく、モダンライフを歌った曲も多い。作曲活動の傍らで1958年には日本作曲家協会を創設。初代会長となった。
死去後の1978年8月4日、国民栄誉賞を贈られた。古賀政男の音
楽人生は昭和の歴史そのものと言えよう。再び遺した代々木の古賀邸は現在古賀政男音楽博物館となり、300人ぐらい入る欅ホールはNHKにも様々な音楽番組を発信している。(フリー百科事典ウィキペディア参照)2006・7・25
74 古賀政男の祥月命日 渡部亮次郎

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