92 最初の近代海戦「宮古港海戦」 古沢襄

「大津波で消えた十三湊文化」に読者のアクセスが集中した。「藍ちゃんは黒潮系」「ツングースの渡来と北越」も人気がある。最近の杜父魚ブログ読者は歴史ものに鋭く反応してくる。日本社会の中で何かが変わってきたという実感を覚えている。歴史教育なんて大上段に振りかぶる必要はない。
東北の太平洋側に宮古港がある。南部藩主利直が領内の要港を調べた結果、宮古を藩の外港にすることを決め、慶長16年(1611)の三陸大津波の被害巡視に訪れた時には、宮古に20日間も滞在した。藩主が先頭に立って町割りを定め、藩船の建造も進めている。
日本最初の近代海戦「宮古港海戦」があったことを知る人も少なくなった。明治新政府に不満をもつ旧幕府軍は、榎本武揚を将として北海道箱館の五稜郭に立てこもり独自の政権を樹立している。
薩長政府海軍はこれを討つため、1869年3月9日に軍艦4隻(甲鉄・春日・丁卯・陽春)、輸送船4隻(戊辰丸・晨風丸・飛竜丸・豊安丸)を品川から出港させ、食糧などの補給のため16日から宮古港に集結しはじめた
榎本海軍はこれを急襲して旗艦甲鉄を分捕るため、3月21日の零時過ぎに3隻の軍艦(回天・高雄・蟠竜)を箱館から出発させた。3月25日に宮古港海戦が起こり、機関の故障のため高雄が遅れ、回天一隻が宮古港に突入している。回天は星条旗を掲げて薩長政府艦隊に接近し、日の丸にかえ、砲門を開いた。日本で唯一の鉄船甲鉄に近づいて接舷、抜刀隊が乗り移って白兵戦を演じた。
しかし、ガットリング機関銃の応戦にあうなどして、回天の甲賀源吾艦長以下多数の戦死者を出して敗北、激戦の末に回天は港外に逃げ去った。薩長政府海軍の春日丸に若き東郷平八郎、榎本艦隊の回天には新選組の土方歳三が乗っていたという。 
明治21年(1888)になって、 早野民之助が塩釜との定期航路を開き、その後函館への定期航路も開かれている。この早野民之助について調べているのだが、まだ分からない点が多々ある。
北上山地に阻まれ、海しか開いていなかったこの地域に、定期航路が開かれたことは、正に近代宮古港の幕開けだった。 宮古港は明治12年、閉伊川左岸の埋立工事を始め、同15年には宮古橋から河口までの船着き場が完成。
早野民之助はこの時期に登場している。宮古港近代化に尽くした功労者の一人と言って良い。東北では珍しい織田木瓜の家紋を持っている。菩提寺は曹洞宗の宮古山常安寺、山門は民之助の寄進によるもの。寺の過去帳を調べれば、早野家の出自や由来が分かるかもしれないと思っているが果たせないでいる。
宮古の地名の由来については諸説があって定まっていないが、一条天皇の時代に宮古の神官が阿波・鳴門の渦巻き音を鎮めて、”都”に通じる宮古の地名を賜ったという言い伝えが残っている。
友人の吉田仁さんは「鳴門の渦を鎮めたという伝承があるのは横山八幡宮という旧郷社の神宮。高橋子績はこの八幡さまに関する”横山八幡宮回縁記”という文章を残しているそうです。また横山八幡宮には金刀比羅宮が祀られています。ご本尊は香川」と言っている。
海路で結ばれた宮古だけに陸路と違って行動範囲が広い。高橋子績の先祖も紀州の徳川家で竹本丹後守配下の船頭(ふなかしら=船長)だったが、南部藩が貰い受けて宮古・高橋家を興している。
早野家は海に関係ある家系だと思っている。早野姓は近畿、千葉、九州北部に多い。そのルーツを探る楽しさがある。

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