94 義経伝説とジンギス汗 古沢襄

小泉首相は10日にモンゴルを訪問してジンギス汗による「大モンゴル建国800周年」に出席する。日本人は戦前からジンギス汗が好きな傾向がある。先史の時代に日本はモンゴリアンロード上にあった。人種的にも日本人はモンゴロイド(黄色人種)の系統だといわれている。
日本人のルーツを探ると旧モンゴロイド(縄文人)が、氷河期の時代に日本列島にきたと推定されている。古墳から発掘した縄文人の人骨・歯から遺伝子を採取してDNAの比較鑑定をすると、シベリア北部の先住民(ブリヤート・モンゴル人)と近いことが科学的に証明されている。
話は飛ぶが「義経=ジンギス汗」説も日本人のジンギス汗好みを増幅させたのであるまいか。源頼朝に追われた義経は、陸奥の平泉で藤原秀衡にかくまわれたが、秀衡の没後、その子の泰衡に急襲され、衣川の館で自殺している。天才的な戦術家といわれた薄命の英雄に対して、世人は「判官贔屓」からいくたの伝説を生んでいる。
「義経=ジンギス汗」説を最初に広めたのは、日本に滞在していたドイツ人医師シーボルト。オランダ語通訳の吉雄忠次郎からこの話を聞いたという。荒唐無稽な話なので、江戸時代にはあまり顧みられていない。「本朝通鑑」続編に「俗伝又曰。衣河之役義経不死逃到蝦夷島存其遺種」と”俗伝”で片付けられている。また清王朝の先祖は源義経で、”清”という国号は清和源氏からとったという”こじつけ”の偽書も生まれた。
むしろ明治時代に小谷部全一郎が唱えた「成吉思汗ハ源義経也」が、学会からは相手にされなかったが、講談など庶民の間でロマンをかき立てる話題となって、大正・昭和の時代まで尾をひいている。最近ではモンゴル出身の横綱朝青龍や大関白鵬の大活躍で、「義経=ジンギス汗」説はともかくジンギス汗に関する日本人の興味が高まるのではないか。ジンギス汗の映画化も進んでいる。
ところでジンギス汗は1206年にモンゴル統一を果たして、1211年から宿願であった女真族の金国攻略を始めた。この戦は十二年間にわたる長期戦になるのだが、完全な金国制圧が出来ないまま戦闘を縮小して、西方のホラズム王国の攻略戦に兵を転じている。ジンギス汗自ら二十万の軍団を率いた大西征となった。この攻略戦も七年間の長期戦となった。
1225年大西征から帰還したジンギス汗は、休む間もなく西夏国攻略戦に入った。宿敵・金国を滅ぼすためには、輸送作戦に欠かせないラクダを西夏国から奪うことが必要であった。この年に西夏国を滅ぼしたジンギス汗は、東の金国攻略戦に向かうが、その途上1227年8月18日に中国清水県西江で死去した。享年六十六歳。死亡日、死亡場所には諸説がある。
死因にも諸説があって定まっていないが、私はロマンをかき立て、悲哀の伝説となった西夏国の美しき王妃・グルベルジン・カトウン(さそり妃)に刺された傷がもとで一命を失った説をとっている。この話は「蒙古源流」や「アルタン・トプチ」にある。滅ぼされた西夏人・タングートたちによって数世紀にわたって語り継がれた悲話なのだが、モンゴル人は否定するだろう。
ジンギス汗の棺はモンゴル騎兵に守られて、大オルドウに向けて運ばれたが、訃報が広がるのを怖れたモンゴル騎兵は、道いく人をすべて殺している。ジンギス汗の遺体はブルカン岳の麓・ケルレン谷に葬られたことになっているが、その位置は今もって特定されていない。

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