<元上海総領事、杉本信行氏が死去
現代中国の実態を鋭く描いた「大地の咆哮」(PHP研究所)の著者として知られる元上海総領事の杉本信行(すぎもと・のぶゆき)氏が3日午前5時10分、肺ガンのため、東京都中央区築地の国立がんセンターで死去した。57歳。
杉本氏は昭和24年1月京都市生まれ。48年に京都大法学部を卒業し、外務省に入省。在中国大使館1等書記官、在仏大使館1等書記官、国際機構課長、交流協会総務部長(台湾)、欧州連合日本政府代表部公使などを経て、平成10年に在中国大使館公使、13年に在上海総領事館総領事などを歴任。
17年に日本国際問題研究所主任研究員となったが、その後病気療養のため休職していた。 上海総領事在職中の平成16年5月に、総領事館の男性職員が自殺した。
背景に中国公安当局者による強要があったとみられたため、杉本氏はすぐに中国外務省に抗議するとともに政府に早急な対応を求めたが、当時の外務省は小泉純一郎首相らに報告していなかった。
この事実関係は今年に入って発覚し、国会でも取り上げられた。 この事件を契機に今年7月に「大地の咆哮」を出版。現代中国の現状を鋭く洞察し、今後の日中関係、対アジア外交に警鐘を鳴らした。 > (Sankei Web 08/03 11:21)
<病床にあり、直接御礼申し上げられませんが、渡部様には、拙書をとり上げていただき恐縮しております。 当時を懐かしく思い出しました。 とくれぐれも宜しくお伝え下さいますようお願いいたします。 杉本信行 >
というメイルを外務省OB会(霞関会)事務局を通じて7月31日に戴いたばかりだった。それが、あっという間にこんなことになってしまった。癌の恐ろしさを改めて知らされた。もっともっと仕事をしたかったろうにと悔やむばかりだ。
1978年8月8日午後3時に羽田空港を発った日本航空特別機に搭乗した日中平和友好条約締結交渉に臨む日本側代表団のメンバーは13人。杉本さんはまだ29歳、入省5年目のバリバリだった。
1号車紅旗 園田直 (外務大臣) 202号室
2号車紅旗 高島益郎 (外務審議官) 203号室
3号車上海 中江要介 (亜州局長) 205号室
4号車上海 大森誠一 (条約局長) 206号室
5号車上海 渡部亮次郎(外務大臣秘書官) 207号室
3号者上海 田島高志 (中国課長) 204号室
5号車上海 佐藤行雄 (外務大臣秘書官) 204号室
4号車上海 東郷和彦 (条約課首席事務官) 107号室
6号車上海 小原育夫 (中国課事務官) 208号室
6号車上海 市橋康吉 (国際機関第1課事務官) 108号室
7号車上海 杉本信真 (中国課事務官) 107号室
7号車上海 頭山興助 (園田事務所秘書) 207号室
7号車上海 片桐正人 (警護官) 201号室
到着に当たって中国側が用意した車列と迎賓館(第18号楼)部屋割り表である。杉本さんの名が誤植になっている。
夕方の北京空港はそれまで篠つく大雨だったらしいが、特別機が着陸した途端、太陽が真っ赤に焼けて素晴らしい夕焼けになった。で迎えてくれた黄華外相が、園田外相と握手を交わし「大臣は恵みの雨を持ってきてくれました」と挨拶した。北京は慢性水不足だったのだ。
ところで、日中平和友好条約に就いて、福田赳夫総理は調印を佐藤正二大使にさせようと考えていた。このため7月21日から8月10日まで合計15回、ほぼ毎日行われた。
佐藤大使、韓念龍外交副部長を団長としてである。このとき杉本事務官は逐語的交渉録の作成を担当したのであった。だから杉本さんにとって日中平和友好条約締結交渉こそは、その後の中国との関わりの原点でもあったようだ。
<当時を懐かしく思い出しました。 とくれぐれも宜しくお伝え下さいますようお願いいたします。 杉本信行 >というメイルにそれを感じ取れる。
また<杉本氏は「すぐ」に中国外務省に抗議するとともに政府に早急な対応を求めたが、当時の外務省は小泉純一郎首相らに報告していなかった。>という産経新聞の書き方には、事件を根底から解決しようと頑張った杉本さんの姿勢を評価しているようで、多少、救われる思いだ。合掌。2006・08・03
通夜式 8月8日(火) 19時より
葬儀式 8月9日(水) 13時30分より
場所(通夜式、葬儀とも)
「聖イグナチオ教会」
住所 東京都千代田区麹町6-5-1
電話 03-3263-4584
喪主 杉本 裕子様(令夫人)
98 やはり逝った杉本さん 渡部亮次郎

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