中国や韓国との関係は良いとはいえないが、モンゴルとの関係が目立ってよくなっている。小泉首相が十日からモンゴル訪問をするので、両国関係はさらに良くなるであろう。戦前から日本には”蒙古”に対する親近感がある。「古代トルコ民族史研究」の著者・護雅夫氏は、昭和十八年に東大東洋史学科を卒業、大学院に進学したが、モンゴル帝国史が研究テーマだった。
しかし、日米戦争が激化したので、海軍予備学生として広島の海軍兵学校で教官となって敗戦を迎えている。護雅夫氏が復員して大学に戻り、モンゴル帝国の研究に取りかかろうとしたのだが、研究室の資料の多くが疎開されていて、モンゴル帝国史や元代史の研究が不可能だったという。
そこでモンゴル以前の突厥(とっけつ)や、その前身の高車(こうしゃ)、丁零(ていれい)などの歴史を調べることにした、と序文で述べている。世界の北アジア史研究は遅れている。中国にとっては北方の異民族、侵略者の土地であったし、ロシアでもモンゴルは苛酷な侵略者でしかない。唯物史観全盛のソ連時代には、実証的な研究が軽視されてきた。トルコでは古代トルコ民族史がほとんど顧みられていない。
疎開でモンゴル帝国の資料が手元に無かったことが幸いして、護雅夫氏という北アジア史の泰斗を生んだともいえる。東大名誉教授だっただけでなく、トルコのイスタンブル大学客員教授、アンカラ大学客員教授、ソ連のレニングラード大学客員教授と国際的にも名が知られた。日本の北アジア史研究は世界的なレベルにあるといっても良いのではないか。
八年前にシベリア旅行をしたのだが、司馬遼太郎の「ロシアについて」の著書を読んでみた。その中にほんの短い記述だが「バイカル湖を中心に展開する高地には、古代中国の視野に、丁零、堅昆、高車といった諸遊牧国家が存在していた。やがてかれらは匈奴に屈服し、併合された」とある。
モンゴルの北方にあった「丁零」は最古のトルコ族といわれている。また最古のモンゴル族という学者もいる。丁零は「丁零高車」とも呼ばれたが、前漢書など中国史料にそれらしい記述があるもののはっきりしたことは分からない。また丁零が北方系日本人のルーツだともいわれている。
いずれにしても「テュルク=トルコ」の表音語で自称・他称されていた遊牧民。それがモンゴル高原一帯に広がり、中国は丁零と漢字読みしたのであろう。この丁零高車は北から匈奴を圧迫する勢いを一時はみせた。
匈奴(きょうど)は紀元前五世紀ごろから五世紀にかけて、北アジアで猛威をふるった遊牧民族だが、モンゴル系、テュルク系などの諸説があって定説が定まっていない。
匈奴や丁零高車の様な草原の遊牧民は、記録を残さない民族だったので、同時代の中国資料に頼ることになるが、異民族視していたので十分な記録が残らない恨みがある。たとえば同じ頃の中国史料に鉄勒(てつろく)の当て字がでてくるが、護雅夫氏は丁零高車の後身とみて、やがて突厥(とっけつ)という遊牧国家を建設したという。いずれもテュルクと表音読みしている。
後漢の時代になって匈奴は二つに分裂している。そして460年にモンゴル系の柔然(じゅうぜん)に攻められて滅亡。この柔然を滅ぼしたのが突厥だったが、東は興安嶺から西はウズベキスタンのソグド地方に至る空前の「古代トルコ大帝国」を建設した。この突厥も八世紀に滅びている。
オノン、ケルレンの河畔に遊牧していたモンゴル部のテムジンがジンギス汗となってモンゴル統一をしたのが1206年、そこに至る北アジアの歴史は波乱に富んでいる。未解明な部分が多いだけに、心を惹かれるところがある。
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