120 大丈夫か旧田中派 渡部亮次郎

<自民党津島派の額賀福志郎防衛長官(62)は11日、同派会長の津島雄二・元厚相と青木参院議会長と都内で個別に会談し、9月の総裁選への立候補を断念する考えを伝えた。
額賀氏は将来の総裁選への対応に関して、「(派内の)『立ち上がってほしい』という声は大事にしていきたい。研さんを積んで、次のステップにつながるよう努力する」と語った。
一方、津島氏は記者団に、「今回、(派として総裁選の)候補を立てることができなかったのは残念だ」と述べた。>(2006年8月11日20時34分 読売新聞)
同じ読売新聞の12日付によると同派副会長の笹川尭氏(元科学技術相)は額賀氏に対して7月27日「君は入閣して”小泉亜流”になり、福田さんと違って小泉批判の受け皿になる道を断った。しかも、派内での根回しも、政策準備もしてこなかった。『ないない尽くし』じゃないか」と痛烈に突き放した。
これを見ると、小泉総理の行った旧田中派壊滅策はほぼ完成したと見える。田中精神があるとすれば、それはスジを通すとか、理想を貫くかという哲学は抜きに、損得で出処進退を判断することだから、死してなお「勝ち目のない戦いは避けたい」との派内の体制を聞けば、田中氏は生きている。
しかして今後旧田中派は何を目指し、何を糧に生存して行くのだろうか。
<(竹下登氏は)1985年、派閥領袖の元首相・田中に反旗を翻す形で、金丸信らの協力を得て、田中派内に勉強会「創政会」を結成。田中の猛烈な切り崩しに遭うも、そのさなかに田中は脳梗塞で倒れる。
1987年7月、「経世会」(竹下派)として正式に独立。竹下派には田中派の大半のメンバーが参加し党内最大派閥の領袖となった。田中の意に反した竹下派への参加を潔しとしない田中派のメンバーらは田中派会長の二階堂進を中心とする少人数のグループ(二階堂グループ)に転落した。
このときの幹部だった橋本龍太郎、小渕恵三、梶山静六、小沢一郎、羽田孜、奥田敬和、渡部恒三は竹下派七奉行と呼ばれた。ほかの幹部に、野中広務、綿貫民輔、村岡兼造らがいた。
また、後に民主党代表となる鳩山由紀夫、岡田克也も若手として所属していた。>(フリー百科『ウィキペディア』)
竹下氏が反旗を翻す1年前前の1984(昭和59)年8月28日、私は著書『さらば実力者』のあとがきを書いた。その中で田中派の行方について竹下氏の”挑戦“を予言して次のように書いた。
「たとえば田中配下(竹下)の田中に対する挑戦のドラマがあるはずである。それは田中自身、佐藤(栄作首相)の配下でありながら、最後は佐藤を寄り切ってその座を襲ったことですでに模範を示している。
かくて配下にしてみれば、あの時代の首魁に優るとも劣ることのない首魁にとって替わるには同じやり方をするしかない。カマキリの世界ではメスがオスを喰うが、政界に展開するのはオスのカマキリがまたオスのカマキリを喰いつくすというあの変態的儀式である。これは見ものであろう」。
これを田中氏は読まなかっただろうし、自己過信に陥っていたから、ひたひたと迫る漣には気付かなかった。勘が頼りの秘書・早坂茂三氏も一緒になって笑っていた。
かくして竹下、小渕恵三、橋本龍太郎と政権を取り続けたが、小泉氏に政権を奪取された途端、神通力を失い、同時に結束にも力を失い、幹部も姿を消した。その上に総裁候補(カマキリ)を育てようとしないのでは猛獣に尻を向けて円陣を組む縞馬集団に成り果てた、といわれても怒れまい。
いうなれば旧田中派の生存は惰性みたいなものだから、輝く未来は考えられない。「君は『ないない尽くし』じゃないか」とは旧田中派自体のことではないか。
額賀氏にしたって党内で実力をつけることが総裁選候補者の資格である以上、入閣が小泉内閣であろうが自民党内閣である以上、仕方のないこと。それを捕まえて揶揄するとは、不合理であって、嫉妬としか思えない。
また党内情勢の分析にしても、福田康夫氏の立候補の可能性はもともと無いものをあると勘違いして対処を誤った。これで旧田中派の幹部には「額賀氏を傷つけずに済んだ」との安堵があると読売は報じているが、自分たちの将来をもっと心配した方が良いのではないか。2006・08・13

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