128 組織人間の次ぎに誰が来るのか 古沢襄

八月はクーラーのきいた書斎でシベリアに抑留された日本人の記録を丹念に読み返す習慣がついて半世紀が過ぎた。最初の一〇年間は抑留から帰国した人たちの記録を集めたり、直接会って帰国話を聞いてメモをとったりした。
最近の一〇年間はシベリアに二度、墓参の旅行をしている。六年前に発刊した「怨念を超えたシベリアの旅」は最初の墓参旅行の後に書いたものだが、抑留記の生々しい実態には及びもつかない。
それは十分に承知しているのだが、今の若い人たちにとって二世代前の抑留記は難渋する読み物になっている。ちょうど私たちが日清戦争の話を聞かされても、今ひとつピンとこなかったのと似ている。私たちの世代が、次世代に語り継ぐ役割の難しさといったものを毎年八月に考えさせられている。
戦争体験の風化というのは、このような世代間の違いの中で生まれるのだろう。司馬遼太郎の小説には賛否両論があるのだが「坂の上の雲」はじめ一連の作品は、風化しかけていた日露戦争を新しい視点で遺した意味が大きい。
敗戦後の私たち世代にはひとつの共通するパターンがあった。それは戦時中に旧制中学で軍事教練をたっぷり仕込まれ、一部は陸軍幼年学校や海軍予科練習生という軍学校にいった少年体験を持っている。基本的には”組織人間”という育て方をされてきた。
少年体験というのは人間形成の上で恐ろしいばかりの影響がある。私たちの世代は大人になるにつれて、産業戦士といった組織人間になる一方で、労働組合という総評傘下の労働運動で組織人間として活躍する二極分化をみせた。文学や歴史、人間性に執着する私などは組織からの”はみ出し者”でしかない。
どのシベリア抑留記を読んでも、スターリン礼賛のマルクス主義者にいち早く転身したのは大学や高等専門学校出のインテリ下士官だったという。非インテリの兵隊たちは、徹底的にしごかれ洗脳されている。ソ連の政治将校は表面に立たずに日本人の走狗を操った実態が暴かれた。
しかし抑留期間が長くなるにつれてインテリ下士官たちが淘汰され、筋金入りのマルクス主義者が主導権を握った。いずれも無学の兵隊あがりだったという。ソ連仕込みで洗脳されたマルクス主義者たちが戦後、興安丸で続々と帰国したのだが、ほとんどが挫折している。ソ連で教育された様に日本の民主化・共産化が進んでいなかったのである。
こういう話を次世代や次々世代にいっても反応が鈍い。ほとんどない、といっても良いだろう。私たちの世代はイデオロギーと人間性という相克する課題を突きつけられ、その呪縛から解き放たれることがなかった。ところが今の若い人たちの前には、破綻したイデオロギー、無力化したイデオロギーしか存在していない。
その分だけ日本ナショナリズムの意識が高まっているのではないか。さらに半世紀を超えた現在、組織人間という考え方も風化した。安倍晋三という新しいリーダーは、戦後初めて次世代に属する首相になろうとしている。期待する気持ちがある半面、大丈夫なのかな、という危惧がつきまとう。一つの時代が終わり、新しい時代の門口に立っている気がするが、新居の姿は、まだ見えてこない。

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