八年前のことになったが岩手県西和賀町沢内太田にある玉泉寺の全英和尚から寺史を書いてくれないかとせがまれた。菩提寺の和尚の頼みであるし、飲み友達だったが「オレは寺作家じゃないよ」と断り続けた。
しかし、そんじょそこらのことでは引っ込まない和尚である。花巻・大沢温泉の山水閣で一晩飲み明かした末に、酔っぱらったこともあって「そんじゃーやるか!」と口走って、寺史を書くことを引き受けてしまうはめとなった。
玉泉寺は寛永二年(1625)に渓巌光浦大和尚が開基してから一度も火災に遭っていない。私が心変わりしないように間もなくダンボール箱にどっさり詰め込んだ資料の山が送られてきた。私の資料好きは和尚もよく知っている。
この資料のお陰で一年がかりで寺史に没頭し、一九九九年十一月に「一点山玉泉寺物語」という多少風変わりな本を発刊した。七年前のことになる。宮古代官所の御給人(士族)で沢内代官所に左遷された高橋子績(1700-1781)が著した「沢内風土記」は、繰り返し読んだものである。
寺史を書き終えて、その余韻が冷めない二〇〇〇年三月に沢内史談会が編集した「陸中国和賀郡 沢内年代記(総集編)」が送られてきた。「沢内年代記」には幾種類かの異本があるが、寺史でも二種類の異本を使わせて貰っている。
すでに寛永二年以降の沢内村史には、かなり詳しい知識を持っていたので、この総集編は興味が赴くままに読み耽った。ところが明和七年七月二十八日の記述のところで思わず目がとまって動かなくなった。
明和七年七月二十八日というのは、私の記憶に鮮明に残っていた。「想山著聞奇集」という江戸時代の奇聞を集めた三好想山の本があるのだが、そこに江戸時代で最大のオーロラが北海道から長崎で北の空で眺められた騒ぎがこと細かく記録されている。
オーロラの知識がない時代のことだから「山火事かと騒ぎ出したが、たちまち、輝く光の幾条もが立ち登り、天のあらん限りをたなびき、人々は天変だと、東西に馳せて騒ぎ立てた(京都)」の類である。それが明和七年七月二十八日の夜のことであった。
このオーロラが沢内村でも記録されていた。「沢内年代記」の下巾本には「七月二十八日夜子ノ時ヨリ始メテ空ノ色赤クナル雲ヤケシ如シ」。白木野本では「七月二十八日ノ夜子ノ時始ヨリ、東南一面ニ空ニ御光サス。北ノ方空ノ色赤ク雲ヤケシ如シ」。さらに草井沢本は「七月二十八日子ノ時始より、北ノ方そらのいろ雲やけの如く。あがくなりて北東西一面に南方江空半分まで、御光さす」とある。
オーロラは北極や南極でよく見られる自然現象だが、それが長崎でも見られたということは、日本全土が厳しい寒期にあったことを示している。記録には出てこないが、農民は不作に見舞われ、村を捨てて逃亡する者も増えた。温暖化の現在では想像もできない時代があった。
151 明和七年の大オーロラ 古沢襄

コメント