176 民主党が保守本流だって? 古沢襄

民主党の菅直人代表代行は北海道・洞爺湖畔のホテルで鳩山由起夫幹事長と食事をとりながら「右寄りシフトの安倍政権は自民党の主流をくんでいない。民主党こそ保守本流だというメッセージをうまく出し切れば参院選は勝てる。小沢一郎代表にはそれができる」と言った。聞いていた鳩山氏も大きく頷いたという。
保守本流とか傍流という言葉は死語になったが、それには歴史がある。保守合同に際して吉田自由党が保守本流、鳩山民主党が傍流という区分けがされた。新党ブームに乗った鳩山民主党に対して劣勢だった吉田自由党が使った言葉である。そのかぎりでは岸信介氏は民主党の幹事長だったから傍流。岸氏の孫・安倍晋三氏は保守傍流?ちょっと待ってほしい。鳩山一郎氏の孫である由起夫氏も傍流ということになりはしないか。
吉田学校の優等生といわれた池田勇人、佐藤栄作両氏は、この分類法によれば、まさしく保守本流になる。しかし池田・佐藤内閣を通して本流という言葉はあまり使われていない。池田内閣においては民主党系の河野一郎氏、佐藤内閣においては福田赳夫氏の協力を得たから、本流・傍流意識は持ち出すと党内融和が乱れる。
死語だった保守本流の言葉を生き返らせたのは田中角栄氏の時代。岸・佐藤兄弟の嫡出子と評された福田赳夫氏と激しい主導権争いをして、今太閤の田中政権を勝ち取った。だが秀吉がしがない百姓の出であることに劣等感を持っていたように、小学校しか出ていない角栄氏は、東大卒・大蔵省組の福田氏には一種の劣等感があった。
そこで我こそは吉田自由党の流れをくむ保守本流という旗を高く掲げた。これも、ちょっと待ってほしい?と言いたくなる。高級官僚から引き抜いて側近として吉田氏が育てた池田・佐藤両氏と角栄氏は少し違う。
昭和21年の総選挙で角栄氏は進歩党公認で立候補したが落選。翌年の総選挙では進歩党が改組した民主党公認で立候補、初当選している。
その民主党は「第一次保守合同」で吉田氏が率いる日本自由党と合流したが、この直後にGHQ介入による山崎首班の動きが起って、角栄氏はこれに猛反対し、第二次吉田茂内閣発足に一役買った。
吉田氏は「あのチョビひげを生やした若いのを、どこかの政務次官にはめ込むように。チョンガリ(浪曲)風の声からしてなかなか宜しい。どこかの政務次官に起用してくれたまえ」と時の副総理・林譲治氏に命じたという。いわば吉田政治の中で傍流中の傍流。脇役に過ぎなかった。
吉田政治は、とどのつまりは官僚政治であった。多くの有能な政治家がGHQ追放令でいなくなり、高級官僚を引き抜いて政治家にするしか道がなかったといえる。その反動というか、補完措置として広川弘禅氏のような得体の知れない人物を党人派の側近して登用して、バランスをとった。
弘禅氏は戦後、日本自由党結成に参加。鳩山氏が公職追放後は、吉田氏に食い込んで、幹事長になるなど吉田側近として重用されている。山崎首班事件では、当初、山崎猛民自党幹事長を首班に押しながら、土壇場で吉田氏に通報して裏切るなど、寝技・立技に長けていて、吉田自由党内に30人余りの広川派を形成している。
角栄氏は、この広川の系統に属した。ロッキード事件で逮捕された秘書の榎本敏夫氏は、元はといえば広川氏の秘書。吉田氏にしてみれば、角栄氏は正嫡ではない。嫡流ではない傍系になるのだが、田中全盛時代になると都合の悪いことは消され、今太閤・保守本流の正嫡子の名が一人歩きしだした。
もっとも、これは角栄氏の異能、実力を否定するものではない。あまり飾りたてない方がいいと言っているだけのことである。ましてや死語になった保守本流意識を、民主党が今頃になって掲げても、国民にとって何のことだが分からない・・・ということ老婆心ながら言っているだけのことである。

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