179 遠ざかる毛沢東 渡部亮次郎

2006年9月9日は中華人民共和国を建国した毛沢東が死去して丁度30年目の日だったが、共産党の『方針』により毛・崇敬行事は抑制された。
当日の読売北京の杉山記者によると、毛個人の功罪、明暗を本格的に議論する機運も見られない、という。
しかし本当は「共産党は国民党(蒋介石)より酷い。いま毛沢東がいたら革命は成功する」と北京市民が語るという。それは格差が広がり続け、権力の腐敗(汚職)が蔓延する中国社会では、弱者層を中心に毛時代の革命、階級闘争、平等への共感がじわりと広がっているのだという。
<毛沢東(もう たくとう、Mao Zed?ng マオ・ツォートン。1893年12月26日(光緒19年11月19日) – 1976年9月9日)は、中国の政治家・思想家。中国共産党の創立メンバーの一人で中華人民共和国建国の父であり、死に至るまで最高実力者の地位を保った。>(ウィキペディア)
私の生まれた翌年から中国との戦争状態が始まっていたわけだが、成長して大学生になるまで毛沢東という名を聞いた事はなかった。中国といえば蒋介石でしかなかった。
その蒋介石が八路軍(現人民解放軍)に敗れて台湾に逃れたあとの、1949年10月1日、毛沢東が中華人民共和国の建国を宣言したというのもあまり記憶がない。国民すべてが人民公社なる飯場のようなところで共同生活をするのが最近の中国だと耳にはしていた程度。
大学時代は早々にマルクスを卒業できたから、共産主義思想には染まらずに済んだ。それが何の因果か、NHK記者として日中国交回復の田中角栄総理同行記者の一員に指名されるとは。
あれは今から34年も前の9月25日。特別機が総理機、記者団機と2機仕立てられたが、私はNHKを代表して総理機の同乗を許された。大平外相は終始沈痛。総理は大陸を上空から見て、ノモンハン従軍を思い出すかと聞いても「そうだなぁ、中国がこんなに広いと空から見て知っていれば攻めてはこなかったろうなぁ」と頓珍漢な答えだった。
予め中国の過去と現状を詰め込んでいたが、快晴の北京空港に鳴り響いた国歌は初めて耳にするものだった。しかし北京滞在中、毛主席の謁見はかなわなかった。
日付は失念したが、午前2時だかに主席邸に通訳、随員抜き、田中総理、大平外相、二階堂官房長官の3人だけが呼ばれて懇談した、と朝になって発表があった。
このとき、毛が権力奪還の野望を持って仕掛けた文化大革命なるものは終焉していたが、天安門広場のあちこちには佐藤反動内閣反対のスローガンがまだ消されずに立っていた。街中の撮影は絶対禁止を申し渡されていたが、私はバスの座席でレンズを袖の下から外に向けてバシャバシャ撮影した。
日本では折から無焦点カメラが流行り初めで、それで完全な写真が撮れた。但し34年も経つとカラー写真はかなり薄くなっている。このとき、北京市内で肥桶担ぎに出合った話は何度も書いた。これは敗戦直後の日本ではないか、しかも空襲に遭っていない首都北京がこれでは、日本より50年は確実に遅れている、と思った。
後に毛路線をひっくり返す鄧(とう)小平はこのとき北京にいなかった。文化大革命で「劉少奇に次いで資本主義の道を歩むブルジョア実権派No.2」のレッテルを貼られ、69年秋から73(昭和48)年まで江西省新建で幽閉の身となっていた。
毛沢東に徹底的に嫌われた鄧小平だ。それにも拘らず処刑されなかったのは、周恩来総理が身をもって庇ったからだとされている。しかし資本主義者の疑いは消えず、76(昭和51)年1月、周恩来の死後、4月に起きた第1次天安門事件の責任をとらされて3度目の失脚。
さすがの毛沢東がこの年9月9日に死去、「四人組」の失脚を経て77年7月、復活。「4つの現代化」(工業、農業、国防、科学技術の近代化)のための経済の改革・開放という奇形資本主義が始まったのである。
毛沢東が存命中、鄧小平を徹底的に嫌ったのは、毛沢東がマルクスを信奉しながら懐疑的だったからのようだ。なぜならマルクスは国家の下部構造(経済)が上部構造(政治)を作るが、出来上がってしまえば政治が経済を動かす、というが、日本の明治維新を見れば、商人が堅固な武家社会を崩壊させた。
つまり経済を資本主義にすれば、共産党政権はやがて資本主義に背かれて、如何ともし難い状態を招く運命にある、だから経済は資本主義、政治は共産主義という鄧小平の目論見は矛盾していると見抜いていたのではないか。
政治の経済支配とは即ち規制であり、規制を嫌うのが資本主義である。資本主義が政治的な規制を逃れるには政治に対して賄賂を使うしかない。それは社会の腐敗となり、反革命の旗となる・・・
毛沢東と鄧小平の本質的対立に気がついている胡錦濤体勢にしてみれば、いまさら毛思想を評価したりすれば、冒頭に出てきた庶民の不満にマッチを放るようなものだから、ここはじっとしているしかないのである。
それでいて「世論」の形成は反革命のタネだから規制をさらに徹底する以外にないと決意したらしい。
<中国が新たなメディア規制 外国通信社の配信、新華社管理下へ
【北京=福島香織】中国国営新華社通信は10日、国務院(内閣)の決定に従って、外国通信社の中国国内における配信を新華社管理下に置き、配信内容に制限をもうけることを定めた「外国通信社中国国内配信記事管理弁法」を発布。同日から施行された。
同法では、外国通信社やそれに類するニュース配信機関が国内ユーザーと契約する場合、新華社系代理店を通すことを義務付けた。
また配信記事、写真、図表について、国家統一や主権領土の完全性を損なう▽国家の安全、栄誉を損なう▽中国の宗教政策に反した邪教、迷信の宣伝▽民族団結や民族感情を損なう▽経済、社会秩序を乱す▽中国伝統文化を損なう-などの10項目の内容を禁止。
これに違反すれば、警告ののち、通信社の資格を取り消す場合もあるとしている。国内メディアが外国通信社記事を使用する場合も同様の規制が設けられた。>(Sankei Web 09/12 00:13)
情報こそは明治維新における「黒船」なのだ。06・09・12

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