182 安倍カラーは参院選後に 古沢襄

安倍晋三官房長官が自民党の総裁選に立つ志を固めたのは何時のことか?具体的にその決意を口にしたのは、ことし二月三日夜の「再チャレンジ支援議員連盟」の菅義偉氏(津島派)ら幹部との会合で「幅広く若い方々から応援していただければ・・・」との発言が、それに当たる。
当時の情勢は古賀誠氏(丹羽・古賀派)ら中堅・ベテラン議員が、森派の福田康夫元官房長官の擁立を模索している。下手をすれば同じ森派の同門対決になるわけだから、必ずしも今のような安倍独走までは予想していなかった筈である。森前首相の心中もはかりかねていた。
安倍擁立の動きは昨年からあった。政調会長になる前の中川秀直国対委員長と昨年一月初旬に静養先のハワイのホテルでバーベキュー料理を楽しんでいる。中川氏は「次の総裁はあなただ。世論の支持がある時に立たねば二度とチャンスはこない」とけしかけている。
安倍氏は返答に窮している。二〇〇二年九月の小泉初訪朝で安倍氏は官房副長官として随行「金正日国防委員長が拉致への国家関与を認めて謝罪しなければ、日朝平壌宣言に署名すべきではない」と強硬に唱えて、外務省路線に立つ福田官房長官と異なる色合いをみせたが、人気度は三位にとどまっている。
この翌年の二〇〇三年九月、小泉首相のサプライズ人事で、当選三回の安倍官房副長官を幹事長に抜擢。中川氏をして「驚天動地の人事」といわせている。だが、中川氏もまだ安倍氏がポスト小泉の一番手とは意識していなかったであろう。むしろ十一月に迫った総選挙に清新な若手幹事長を登用するという選挙対策人事という受け止め方が大方の見方であった。
九月二十日深夜、安倍氏の携帯電話が鳴った。でてみると小泉首相であった。「大事な役職をお願いするかもしれない。じゃあ、またね」と短く、一方的な話をして電話が切れた。この時に小泉首相は森前首相に安倍氏を幹事長に抜擢すると伝えている。
二十一日午前に安倍氏の携帯電話が鳴った。でてみると今度は森氏。そこで幹事長だと聞かされ「えっ」と絶句している。声もでない安倍氏に「選挙対策と思って引き受ければいい」と森氏がいう。小泉首相の腹は小泉・安倍の二枚看板で総選挙を乗り切ることだと覚った安倍氏は受諾の意向を森氏に伝え、これがそのまま首相官邸に伝わった。
しかし十一月の総選挙では無党派の風が民主党に吹き、自民党は解散時の二百四十七議席を減らしただけでなく、単独過半数の二百四十一議席にも届かなかった。二百三十七議席にとどまった自民党は、三十四議席を確保した公明党と合わせて絶対安定多数の二百六十九議席をかろうじて確保している。安倍氏にとっては、ほろ苦い経験となった。
翌二〇〇四年、安倍幹事長の下で参院選が行われた。三年前の参院選では小泉・真紀子旋風に乗って自民党が圧勝した余勢をかって自民党だけで単独過半数となる五十六議席確保が安倍幹事長の至上命題だったが、民主党の五十議席に対して自民党は四十九議席、改選五十一議席を割り込んだ。二〇〇一年に六十四議席議席を獲得しているので、参院における自民・公明連立与党の優位は変わらないが、手痛い敗北には変わりない。
二度にわたる選挙の敗北を安倍氏が経験したことは、プラスになったのではないか。二〇〇三年総選挙で小泉首相が求めたのは、若さの看板であった。総選挙のお膳立ては前任の山崎拓幹事長作っていて、安倍氏の裁量が入り込む余地はなかった。そこでイメージとか顔だけで選挙が勝てるものではないと思い知ったといえる。
二〇〇四年参院選では、地方県連で決め、参院執行部が追認する候補者の選定に疑問を持った。それが今回、すでに公認を決定した候補者であっても、選挙に勝てない判断を持てば、入れ替えを考えるという発言になって現れた。青木参院議員会長や片山参院幹事長の反発を承知のうえでの発言といえる。
当面の安倍氏にとっては、選挙に勝つことがすべてといえる。参院選はもちろんだが、十月の二つの衆院補欠選挙も勝つつもりでいる。ひ弱なタカ派と目されていた安倍氏が、ここで新首相として大きく脱皮できるかは、来るべき選挙の結果にかかっている。それを乗り切って、参院選後に本格的な安倍カラーがでてくると思って間違いなかろう。

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