183 シベリア抑留の記録 小松崎三郎(監修・古澤襄)

八年前にシベリア墓参の旅をしたが帰国後、小松崎三郎氏がペン書きの「シベリア抑留の記録」を送ってきた。茨城県在住の小松崎氏はシベリア墓参事業が始まって以来、シベリア各地の日本人抑留者墓地を巡り、細かい記録をいくつか作っている。
それをもとにしてシベリア抑留から帰国した元日本兵の「抑留記録」数冊、関東軍作戦参謀だった草地貞吾氏の「回想録」を参考にして、ソ連参戦直前の関東軍の状況、降伏した関東軍将兵のシベリア移送状況、シベリア抑留の実態と日本人墓地をまとめた。
印象に強く残ったのは東洋一の要塞と称された虎頭要塞の玉砕であった。僅か1400の守備隊でザフバターエフ中将麾下の重装備機械化兵団1万人に囲まれ、激戦の末にほぼ全員が戦死している。重傷を受けて生き残った兵士は約50人。いずれもシベリアに抑留されたが、多くの帰還者は死に場を失ったことを恥じて、虎頭要塞の戦闘については固く口を閉ざしたまま語ることはなかった。むしろ中国側から要塞の工事で駆り出された労務者が、秘密保持のために殺害されたという問題提起がなされている。
ソ連軍が侵攻直前の関東軍
満州の広野にソ連軍が侵攻してきたのは、昭和20年8月9日。終戦の一週間前である。日ソ中立条約の自動延長を行わないとソ連側から廃棄通告してきたのが、四ヶ月前の4月5日、在モスクワの佐藤駐ソ大使は条約第三条の規定に「廃棄通告は期間満了の一年前」と記されてあるので、この点をモロトフ外相に質すと「条約の失効は一年後のことになる。ソ連の中立義務に変化はない」と答えた。外交的にみれば、日本はソ連の不意打ちを食らったことになる。
外交的にみれば、これは疑う余地のない事実だが、軍事的にみて果たして不意打ちだったのだろうか。日本の大本営や関東軍は無策のまま8月9日を迎えたのであろうか。昭和19年のソ連革命記念日に、スターリンは日本を侵略国と決めつける演説を行い、昭和20年2月11日にはヤリタ協定で対日参戦の合意を連合国の間で結んでいる。
また欧州における独ソ戦は、5月8日にドイツの降伏という事態を迎え、ソ連の極東軍は確実に兵力を増強していた。ソ満国境に配置された関東軍の向地監視部隊からは、シベリア鉄道の部隊輸送は自動車類が増加し、兵力や軍需品を国境に向かっていることが報告されている。
昭和19年末の大本営・関東軍が推定した極東ソ連軍の兵力は兵員70万、戦車1000両だったのが、昭和20年7月の時点で兵員130万、戦車4000両と修正され、大本営の対ソ判断は「ソ連の対日作戦準備は、予想を上回る進展を示し、8月末ごろには武力発動可能の態勢を一応既成し得て、軍事上からみるときは、本年初秋の候、対日武力発動の公算が極めて大きくなった」としている。
この時点における関東軍の配備兵力は、兵員70万で兵力・装備とも劣勢で、しかも精鋭師団を南方作戦に抽出(兵力転用)され、総合戦力は精鋭師団の30パーセント程度まで低下していた。このために昭和19年9月18日に大本営は関東軍に対して「対ソ持久戦作戦」の作戦計画を命令した。
満州事変以降の対ソ作戦の方針は、日ソ戦争が起これば、日本本土の航空攻撃の基地となる沿海州のソ連基地攻撃を主眼とし、満州東部地域の戦力強化を図ってきた。
この攻勢防御の作戦計画から、満州全土の三分の二を反撃しつつ後退し、新京南東の長白山地を背にした通化に軍司令部を移し、パルチザン戦を展開するという持久戦作戦に切り替えた。
この持久戦作戦は6月14日に関東軍隷下の方面軍に示達され、9月下旬までに全軍の移動・配備が行われる計画だったが、8月のソ連軍の侵攻によって日の目をみないで終わった。
関東軍の配備状況
中途半端なままに終わった「対ソ持久戦作戦」計画だったが、終戦当時の関東軍の配備は次のようなものである。
主要兵団は24個師団、9混成旅団、1機動旅団で、兵員70万。抽出によって弱体化した関東軍を補強するため、支那方面から4個師団が満州方面に転用されている。
この4個師団は、以前に支那戦線にいたことがある部隊としてシベリアでは「衣部隊」の通称で呼ばれ、第117師団長・鈴木啓久中将、第59師団長・藤田茂中将、第39師団長・佐々木真之助中将、第63師団長・岸川健一中将らは、中国側に引き渡され、戦争犯罪人として裁かれた。
関東軍・軍司令部(山田乙三大将)
第一方面軍         喜多誠一大将     敦化
 第3軍          村上啓作中将     延吉
第79師団         太田貞昌中将     図們
  第112師団      中村次喜蔵中将・自決 琿春西方
  第127師団      古賀竜太郎中将    図們南方
  第128師団      水原義重中将     羅子溝
  独立混成第132師団  鬼武五一少将     大咸廠
第5軍           清水規矩中将     掖河
  第124師団      椎名正健中将     穆陵
  第126師団      野溝武彦中将     掖河
  第135師団      人見与一中将     掖河
  第122師団      赤鹿 理中将     南湖頭
  第134師団      井関 仭中将     方正
  第139師団      富永恭次中将     敦化
第三方面軍         後宮 淳大将     奉天
 第30軍         飯田祥二郎中将    新京
  第39師団       佐々木真之助中将(支)四平
  第125師団      今利竜雄中将     通化
  第138師団      山本 務中将     撫順
  第148師団      末光元広中将     新京
第44軍          本郷義夫中将     奉天
  第63師団       岸川健一中将(支)  奉天
  第107師団      安部孝一中将     索倫北方
  第117師団      鈴木啓久中将(支)  大賚
  独立戦車第9旅団    北 武樹大佐     四平
  第108師団      磐井虎二郎中将    錦県
  第136師団      中山 惇中将     奉天
  独立混成第79師団   岡部 通少将     安東
  独立混成第130師団  桑田貞三少将     奉天
  独立混成第134師団  後藤俊蔵少将     臨江
  独立戦車第1旅団    阿野安理少将     奉天
第4軍           上村幹男中将     ハルピン
  第119師団      塩沢清宣中将     ブハト
  第123師団      北沢貞治郎中将    孫呉
  第149師団      佐々木到一中将    ハルピン
  独立混成第80旅団   野村登亀江少将    ハイラル
  独立混成第131旅団  宇部四雄少将     ハルピン
  独立混成第135旅団  浜田十之助少将    愛琿
  独立混成第136旅団  土谷直二郎少将    嫩江
第十七方面軍(朝鮮軍管区) 上月良夫中将     京城
第58軍          永津佐比重中将    済洲島
  第96師団       飯沼 守中将     済洲島
  第111師団      岩崎民雄中将     済洲島
  第121師団      正井義人中将     済洲島
  独立混成第108旅団  平岡 力少将     済洲島
  第120師団      柳川真一中将     京城
  第150師団      三島義一郎中将    井邑
  第160師団      山脇正男中将     裡里
  第320師団      八隅錦三郎中将    京城
  独立混成第127旅団  坂井 武少将     釜山
第34軍          柳淵宣一中将     咸興
  第59師団       藤田 茂中将(支)  咸興
  第137師団      秋山義允中将・自決  定平
  独立混成第133旅団  原田繁吉少将     新京
  大陸鉄道隊(チタ州)  草場辰巳中将     新京
終戦、武装解除、シベリア移送
南方戦線の戦況悪化により、関東軍から抽出されて転用された兵力は、昭和18年の第二方面軍司令部(チチハル)に始まり、終戦まで24個師団にのぼったが、装備・編成とも精強師団で、昭和20年3月ごろには関東軍の戦力は大幅に低下した。このために支那戦線から4個師団の転用、在満州の壮丁の根こそぎ動員召集をかける非常手段をとっている。
一方、増強されたソ連極東軍の兵力は、関東軍の想定を上回り、戦後公刊された資料によれば、兵員157万人、火砲2万6000門、戦車自走砲5500両、飛行機3400機。
極東軍総司令官はワシレフスキー元帥、東部国境方面は第一極東方面司令官・メレツコフ元帥、北部方面は第二極東軍司令官・ブルカエフ大将、西部方面はザバイカル方面軍司令官・マリノフスキー元帥で、三方面から満州中央部を目指して侵攻してきた。
東洋一を誇った虎頭要塞には、ザフバターエフ中将麾下の第35軍が攻撃をかけてきたが、すでに南部の通化を防衛線とする持久戦作戦に移ろうとしていた関東軍は、1400人の守備兵力で、重装備機械化兵団1万人のソ連軍と交戦、玉砕(生存者約50人)した。
国境に配置された守備隊は、虎頭要塞とほぼ同じ運命を辿った。そして8月15日の終戦を迎えることになる。
8月16日「関東軍司令官は、即時、戦闘行動を停止すべし」との大本営命令を受領、関東軍総司令官・山田乙三大将は隷下全軍に即時停戦の命令を発した。
8月19日に興凱湖西にあるジャリコーウオ戦闘司令所で秦総参謀長、瀬島作戦参謀、宮川ハルピン総領事(通訳)がソ連極東軍司令官・ワシレフスキー元帥と会見、関東軍の武装解除の要領、治安の維持、在留邦人の保護など停戦交渉を行って諒解が成立。これについて抑留密約があったとの疑惑が残ったが、交渉といっても一方的なソ連側の指示だったのが真相であろう。
すでに激戦地の国境地帯では、8月末から関東軍将兵のシベリア移送が始まっていた。9月3日には関東軍の武装解除が行われ、将兵は敦化など27カ所の中間集結地に集められて1000人程度の大隊編成で10月末までに続々とシベリア各地に送られた。新京にあった将官クラスは9月6日にハバロフスクに連行。
主なシベリアへの移送経路は、南東地区は緩芬河(スイフンガ)→ウスリースク、琿春(コンシュン)→徒歩でクラスキノ、北西地区は黒河(船で) →ブラゴエシチェンスク、満州里→ザ・バイカリスク、他に黒河・佳木斯(アムール川を船で)→ハバロフスク、稀に北朝鮮(船で)→ナホトカとなっている。
シベリアの収容所は、抑留者がその土地の状況に合わせて作った粗末なものが多く、このほかドイツ人捕虜が入っていた工場近くの収容所跡地、ロシア人の囚人が入っていた町近くの刑務所の利用もあった。短期の移動には天幕も利用。
日本人の抑留者によって作られた収容所建物の主な形態は、立穴式、半地下式、盛り土箱型(以上が森林地帯・一部は鉱山)、家屋型(工場近辺)で、都市周辺の既存の建物は将校収容所に当てられた。
建物の中は立って歩けない低さのものから2段。3段の蚕棚式まで種々雑多だったが、最初の一年は旧軍隊の階級制度が収容所でも残り、上官が良い場所を占めて兵は食料不足も加わり、厳寒期に多くの死亡者を出した。
昭和21年4月頃から収容所内に民主運動が広がり、同時に将校たちが他の収容所に送られたこともあって、気温の上昇とともに死亡者が減り始めた。
特に死亡者が多く出たのは、バム鉄道(バイカルとアムール地区を結ぶ第二シベリア鉄道)の復旧工事に駆り出された収容所で、苛酷な労役から倒れる者が続出し、また欠員補充が絶えず行われたため、実態の確認が現在でも困難な状況にある。
なかでもタイシェットとブラーツクに間の収容所は、鉄道沿線の両側に収容所が目白押しに建てられ、死亡者の比率が最も高い地域となった。戦後出版された抑留手記は、この地域からの帰還者のもが多い。一方、支那戦線から転用された4個師団が収容されたチタ州の抑留手記は少ないという特徴がある。
抑留者の墓地と埋葬人数
スターリン時代の非人道的なシベリア抑留は、これから日本の経済援助が欠かせないロシアにとっても、頬かむりでは済ませられない問題である。日本人墓地の整備、墓参団の受け入れなどで、ソ連時代とは違った対応をみせているが、日本側からみると整備された日本人墓地は限られた一部であって「ショーウンドウ」的な感じを抱かざるを得ない。
大部分の墓地は、遺骨の所在も分からないまま原野と化し、山林や農地になったところも少なくない。墓地数も埋葬人数も不確定のままである。
昭和50年に引揚援護局は、ソ連地域の州別日本人死亡者の調査を発表したが、それによるとソ連全土の日本人墓地数は332カ所、埋葬人数は4万5575人で、少なく見積もっても1万5000人以上が不明のままである。
各州の墓地数と埋葬人数(括弧内)は次のようになっている。
カムチャッカ州 1(20)、マガダン州 2(160)、北樺太 1(70)沿海州 66(7000)、ハバロフスク州 72(13000)ニジェアムール州 2(100)、アムール州 25(4000)
チタ州 30(5500)、ブリヤートモンゴル自治共和国 13(500)蒙古人民共和国 9(1700)、イルクーツク州 33(6000)、クラスノヤルスク州 15(1000)、ケーメルボー州 1(200)
アルタイ州 6(2500)、ウオストチノカザックスタン州 4(300)、カラカンダ州 16(1300)、アルマータ州 12(500)タシケント州 9(600)、タジック共和国 2(260)ウズベック共和国 1(40)
ユジノカザソクスタン州 2(40)、クラスノボドスク州 1(120)スヴェルドルスク州 1(20)、タタール自治共和国 2(120)、タンボフ州 1(60)、イワノヴォ州 1(5)、モスクワ州 1(10)、ロストフスク州 1(200)、スターリンスク州 2(50)
6万人を超える犠牲者
ソ連の東洋アカデミーのキリチェンコ研究員は、シベリア抑留について「64万人を抑留し、そのうち6万4000人が死亡した」と述べている。
一方、昭和30年6月17日の外務省発表は、終戦当時に満州、北朝鮮、千島、南樺太に居住していた軍民合わせて272万6000人のうち57万5000人がソ連軍によってシベリア、外蒙古、中央アジアに移送されたとしている。
これとは別に留守業務部の資料では54万1500人が移送されたとなっていて、正確な抑留者の人数は今もって分からない。
しかし、昭和21年12月19日に締結された「日本人引揚に関する米ソ協定」によって開始された抑留者の送還は、昭和25年4月22日にソ連側から47万1000人の送還をもって完了したと発表された。
実際には昭和29年3月までに1231人、昭和30年4月に88人、そして昭和31年12月26日に最後の引揚者1025人が帰国したので引揚者の総数は47万3000人余りとなった。
外務省発表を根拠にすれば、未帰還者は10万2000人、留守業務部の資料を根拠にすれば未帰還者は6万8500人になる。この数字は現地からの逃亡・行方不明、戦犯として中国に引き渡された数を含んでいるから、抑留中に死亡した数は6万人を下らないと判断するのが妥当と思われる。
遺族の墓参の旅は続けられているが、肉親の墓を探し当てるのは一人か二人になっている。日本人墓地には、必ずといって良いほど死亡者の名前も分からない無縁墓地がある。帰還した抑留者も高齢となり、物故者も増えている。「ショーウインドウ」でない墓地の調査は年々困難になっているのが実情である。

コメント

  1. 中島裕 より:

    私はタイシェット地区46キロ地点第5収容所にいた者です。
    現在収容所はあるのでしょうか。墓地はどうなっているのでしょうか。死んだ戦友の名前は千鳥ヶ淵にもありません。

  2. 古澤襄 より:

    シベリア墓参の旅には二回参加し、タイシェットにも行きました。宿舎に三人の元戦友が墓参に来ていて夜は歓談。詳しくは以下の墓参記をお読み下さい。
    http://kajikablog.jugem.jp/?search=%A5%BF%A5%A4%A5%B7%A5%A7%A5%C3%A5%C8
    タイシェットは第二シベリア鉄道の要衝の地ですが、独ソ戦でスターリングラードに迫ったドイツ軍を阻止するために鉄道の線路や枕木を外して運びバリケードに使っています。
    日本関東軍の抑留者はこの第二シベリア鉄道の復旧作業に駆り出され、過酷な労働を強いられてシベリアでもっとも多い犠牲者を出しております。これについてはロシアのイルクーツク大学のクズネッツオフ教授が詳しい調査報告を発表しています。
    第二シベリア鉄道の沿線には数多くの収容所が作られていますが、タイシェット周辺を含めて現存していません。亡くなった抑留者の墓も発見が困難でしょう。私たちは幸いにも第二シベリア鉄道沿いにあった木標が立てられた抑留者の墓を発見しまたが、氏名などは確認できませんでした。

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