186 丹波貞子さんが亡くなって九年 古沢襄

俳優・丹波哲郎の貞子夫人が亡くなって九年の歳月が去った。女房の従姉に当たる人だったので、西荻窪にある丹波邸には、よく遊びに行った。夕方になると貞子さんから局長室によく電話がかかってきた。「麻雀のメンバーが足りないから来てよ」・・・私は断ったことがない。
丹波哲郎の豪快な麻雀も好きだったが、気丈な才女だった貞子さんの上手な麻雀に魅せられたからである。麻雀で豪快というのは、よく振り込んでくれる、つまりは下手ということである。私にとってはカモということになる。貞子さんは平和(ピンフ)三色、ドラ・ドラの手でさっとあがる。いつも貞子さんにはやられた。記者仲間の麻雀では自信があった私だが、丹波邸で大勝した記憶がない。
”気丈な”というのには理由がある。貞子さんは立つことができなかった。ポリオに冒され、小児マヒの不自由な身体であった。外では車イスだったが、家では両手で身体をずらしながら動いていた。それが、とてつもなく明るい。いつも周囲の人たちに気配りをして心底から明るく振る舞っていた。
ポリオに冒されたのは、結婚して八年か九年経ったときだったという。生まれた長男のギル君が三歳の時であった。ギル君・・・丹波義隆は中堅俳優として活躍している。蛙の子は蛙であった。草場の陰で貞子さんは、わが子の活躍を喜んでいるのではないか。
戦後間もない頃のことだが、貞子さんは荻窪のマーケットで小さな洋裁店を開いていた。昼間は証券会社に勤めるという働きものであった。その洋裁店にドレメーを卒業したばかりの妻が手伝っていた。中央大学の法学部から学徒兵で、立川の航空隊から復員してきた丹波哲郎は二階の部屋にいたという。「いつも二階でゴロゴロしながら本を読んでいたのよ」と妻はいう。弁護士になるのか、と思っていたそうだ。
”才女”にも理由がある。妻もそうだが、貞子さんも二・二六事件で処刑された北一輝の血縁の人である。妻はのんびりしたところがあるが、貞子さんの頭の良さはずば抜けていた。おまけに美貌。丹波哲郎が惚れたのも無理がない。
北一輝には弟の北昤吉がいる。早稲田大学を出て渡米し、ハーバード大学で学んだ後に帰国、1935年に多摩美術専門学校(現在の多摩美術大学)を創設している。二・二六事件直前の総選挙で無所属で当選し、政界入りしている。当選後立憲民政党に属した。
北昤吉は戦前から鳩山一郎と政治活動をともにし、戦後は自由党鳩山派に属した戦前派の代議士。北一輝とは違う道を歩んだが、戦後に兄の「国体論」を出版するなど、その思想を肯定的に評価し、また影響も受けている。西荻窪の丹波邸は北昤吉の遺族から屋敷跡を買い受けて建てられた。ギル君にも北一輝の血が流れている。
一九九七年四月十三日、貞子さんは帰らぬ人となってしまった。丹波邸で行われた葬儀は、無宗教で読経もなく、戒名もなく、好きだった「夕焼け小焼け」と「人生いろいろ」の歌が流れていた。妻と一緒に参列した私には、悲痛な丹波哲郎の表情が焼き付いて離れない。人の一生はかくも儚いものである。

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