190 味噌で命拾い 渡部亮次郎

お袋は98まで生きて、私は顔はお袋似と人に言われる。顎の短いところなどそっくりだなと、最近、鏡を見ながら思う。2年前の1月半ば、老人ホームの自室でトイレに座ったまま、多分、心筋梗塞で一瞬のうちに死んだ。
死ぬまでボケなかった。東京の私の電話番号は暗誦していた。実家にいる時は同居する妹が諳んじていないのを非難するものだから、実の親子ながら不仲だった。
そのおふくろは私が生きたのは味噌のお陰と信じて、私の料理のすべてが味噌仕立てだった。すべてが鍋料理で、味噌仕立てだったのである。八郎潟(干拓前)から掬ってくる鮒やなまずを長ネギ、豆腐と一緒に味噌で煮てくれるのが定番だった。兄のは醤油煮。
「この子は学校には行けないでしょう。それまで保(も)たないでしょう」5歳ごろ、枕元で町医者が親父たちに説明しているのを私はちゃんと理解していた。いま考えるとネフローゼかなにかだったのだろう。
ワケの分らない飲み薬を何年も呑まされた。幸い生き延びて小学校(国民学校)には入ったが、記念写真を見ると、陰が薄い。それまでは腎臓に悪いと、味噌汁を禁止されていた。
ところが3年生のとき、味噌汁を飲んでしまった。そしたらたちまち元気になった。戦争に負けて野球が入ってきた。選手になったら投手で4番になった。爾来、お袋は死ぬまで私に味噌を食べさせ続けたのである。
私の秋田在の実家には味噌蔵があった。冬の長いところだから、自家製の味噌をはじめ野菜や海草の漬物が抱えきれないほど大きな桶にびっしり詰まって置かれていた。味噌は5年ものまであった。
敗戦直後のある朝、味噌のすべてが盗まれているのを母が見つけた。その頃は万事もの不足。醤油の売ってない時期で、味噌で醤油を代用していた時期だから、台所を預かる母の落胆は大きかった。
父が東京へ出かけることを知っていたあいつが犯人だと決めていた。なるほどそれはすぐ近所の貧しい百姓屋の親父だったが、断定はでき無いまま終わった。
当時はそれこそ手前味噌。毎年秋の天気のいい日に風呂桶に対に大きなナベを外に持ち出し、大豆を何回も煮て、桶で長靴で踏んだ。それに麹と塩をふんだんに入れて、あとは寝かすだけ。1年後ぐらいには食べられた。
だれでもが自慢したがることを、特定の一人だけが誇ることを手前味噌というのは、かつて味噌は家単位に作っていたので、それぞれ味が違っており、自分の家のみそがいちばんうまいと考えやすかったためである。
また、家ごとに伝承されるみそは、調味料である前に家族の生命を養う大切な蛋白源であったから、それが腐ると死者が出るという俗信も各地にある。
<味噌を使ったことわざ、ことば>
味噌の味噌臭きは食われず  味噌買う家は蔵が建たぬ  味噌に入れた塩はよそへは行かぬ  手前味噌で塩が辛い(→手前みそ)  医者に金を払うよりも、みそ屋に払え  塩も味噌もたくさんな人  味噌と医者は古い方が良い  
女房と味噌は古いほど良い  味噌も糞も一緒  味噌を付ける  味噌が腐る  味噌っかす  味噌っ歯 (下手が歌うと腐るのは糠みそ)
現在では自家製の味噌を作る家は極めてすくなくなっなくなった。
メーカーはマルコメ(長野県長野市)  ハナマルキ(長野県上伊那郡) マルサンアイ(愛知県岡崎市)  カクキュー八丁味噌(愛知県岡崎市) イチビキ(愛知県名古屋市熱田区)  サンジルシ醸造(三重県桑名市) かねさ(青森県青森市) 日本海味噌醤油(富山県上市町) - キダ・タロー作曲のコーシャルソングが有名  宮坂醸造(神州一味噌、長野県諏訪市) マルマン(長野県飯田市)  ますやみそ(広島県広島市) 新庄みそ(広島県広島市) 義農味噌(愛媛県松前町)  ニビシ醤油(福岡県古賀市)  フンドーキン醤油(大分県臼杵市)  富士甚醤油(大分県臼杵市)
東京に住み着いた私が最も珍重するのは秋田県仙北市角館(せんぼくし かくのだて)の安藤醸造の家伝粒味噌。1Kg1,000以上する。70年生きてきてやっとお袋の味噌に出会った。
www.andojyozo.co.jp/〔電話:0187-53-2008〕
1983年の日本における味噌の生産量は57万4000t、うち米味噌は79%、麦味噌は11%、豆味噌(調合みそも含む)は10%を占める。使用された原料は大豆18万1000t (うち輸入は16万2000t)、脱脂大豆300t、米10万5000t、麦25000t、 食塩7万1000t(食糧庁調査)となっている。
そのほかに自家自給味噌が6万4000t(1982、農水省,農家生計費統計)程度つくられている。消費の大部分は国内消費で、輸出は1708t、5億0600万円(1982、味噌輸出通関実績)。
おもな輸出先はアメリカ、シンガポール、台湾、イギリス、カナダ、オランダ、オーストラリアである。1980年時点で味噌の売上げは約1300億円であり、即席みそ汁は約160億円である。
味噌が工業的に生産されるようになったのは、江戸時代に入ってからで1645年(正保2)に仙台伊達藩の〈御塩箇蔵〉で製造が開始された。豆味噌はこれよりも早く1625年(寛永2)三河で製造が開始されたとされる。
その後、味噌醸造は全国的に普及し、製造所は第2次大戦末期には5500以上に達し、各地の原料需給事情、気候風土、食習慣などの諸条件により、それぞれの地方特有のみそを創出し、その結果多品種,多銘柄のみそが生産されるようになった。〔参照:平凡社百科大事典=古い!、フリー百科事典ウィキペディア〕 2006・07・24

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