207 一皮めくれば、”修羅の顔” 古沢襄

安倍総裁という主がいなくなった東京では派閥の親分衆が騒がしい。もっとも河口湖に押し掛けたマスコミ各社が、別荘に入れて貰えないので、情報の取りようがないから、在京の親分衆を取り囲んで、あれこれ言わせているだけのことである。親分衆もマスコミを使って、自派の要求を間接的に安倍氏に伝えようとしている。
有形無形の圧力をかけていることになるが、主がいないから空鉄砲を撃っているようなものである。空鉄砲で日曜日の紙面をとりあえず作らねばならぬ。その翌日の月曜日紙面となると、その日の午後決まる党役員人事を踏み込んで予想せねばならぬ。当たるも八卦、当たらないのも八卦なのだが、厳しい判断が求められる。
月曜日の各紙は朝早く駅売りをまとめて買うつもりでいる。どの紙面が当たるのかイジワル爺さんの心境と言ってもよい。日曜日のテレビ番組も楽しみである。岡目八目、当たらなければ安倍人事をコキ下ろすのが目にみえている。
石原東京都知事が面白いことを言っていた。「(父親の)安倍晋太郎さんという政治家はいろんな点で甘かった。晋三さんはむしろ、(祖父で元総理の)岸信介さんの血を受け継いでいると思う。岸さんは強い意志を持っていた人。その姿勢でやってもらいたい」と。
党内融和を優先すれば、甘いといわれても晋太郎さん流の各派閥に配慮した人事になるだろう。後見人の森前首相は、この考え方。小泉流の独断的人事をやれば、若い安倍総裁は党内各派からソッポを向かれ、安倍内閣は”砂上の楼閣”になりかねないと危惧する。独断専行は小泉さんだからできたことで、安倍さんでは無理と思っているのかもしれない。
だが安倍総裁は優しい顔をしているが、意外と頑固一徹な性格の持ち主。富士山麓の別荘から下界に戻って、一気呵成に安倍人事を断行するかもしれない。石原都知事がいう岸信介さんのDNAが色濃く反映した人事になる可能性も秘めている。”長州っぽ”には、そういうところがある。
人事はどのようにやっても不満が残る。気にしていたら切りがない。決めたら不退転の決意で押し切るしかない。不満を持つ人がいれば、優しい顔で「次の時に考えますから・・・」と言えばよい。その役割は森さんにふればすむことである。小泉内閣では、森さんはその役者をやってきている。笑って人を斬るぐらいの気持ちがなければ、総理・総裁は務まるものではない。八方美人では、安倍内閣の先は見えてくる。
ひょっとしたら党内融和を説く森発言は、森流の演技なのかもしれない。ビール缶を握り潰し、干からびたチーズに不満を洩らした森演技に”小泉・森の断絶”とマスコミは騙された。マスコミを騙す演技だったわけではない。突っ走る亀井静香さんに出したメッセージであった。その意味では森演技は亀さんに通じなかった。
政界というところはキツネとタヌキの化かし合い、政治家のいうことを、そのまま鵜呑みにする方が間違っている。安倍総裁の優しそうな顔を一皮めくれば、”修羅の顔”がでてくるかもしれない。総理・総裁はお人好しでは務まらない。それだけに孤独なものである。六〇年安保の頃、南平台の私邸で朝早く盆栽を眺めていた岸首相の後ろ姿を何度かみているが、こちらが声をかけられないほど孤独な姿であった。祖父が通った道を安倍ちゃんは歩もうとしている。

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