十一月十九日投開票の沖縄県知事選は、基地をかかえた沖縄県民が、北朝鮮の核保有という新しい周辺事態に、どういう意思表示をみせるのか注目に値する。単純に安倍自民党と小沢民主党の対決という図式では割り切れない。
自公両党が推薦する前沖縄電力会長の仲井真弘多氏と野党統一候補の糸数慶子参院議員の一騎打ちとなる。糸数氏は戦跡地を案内して、戦争の悲惨さを伝える”平和ガイド”の草分けで、沖縄社会大衆党の副委員長。04参院選で民主・社民・共産党の推薦をえて、31万6148票の大量得票をして、自民党の翁長政俊氏の22万803票を退けている。
沖縄では抜群の知名度を誇る糸数氏の優勢が早くから伝えられている。反基地感情が強い沖縄県民が糸数県知事を選択すれば、普天間飛行場の移設をはじめ米軍再編計画にも影響を与えるであろう。志位和夫共産党委員長は「糸数氏が勝てば米軍再編はできなくなる」と言い切る。糸数氏は普天間飛行場の国外移設を要求している。
日米両国政府は普天間飛行場をキャンプ・シュワブ(名護市)沿岸部に造ったV字形滑走路に移設することで合意したが、稲嶺恵一知事は反対して、代案として暫定ヘリポート案を主張してきた。自公両党が推薦する仲井真弘多氏も稲嶺県政の継承を唱えて、ヘリポート案を検討に値すると言っている。
沖縄知事選の帰趨を占うものとしては、昨年の総選挙で各党派が獲得した票数が一応の目安になろう。沖縄一区(無所属72384、公明67540、共産23123)沖縄二区(社民71861、自民60540、無所属14617、共産6875)沖縄三区(自民72407、社民51074、民主40819、共産6043)沖縄四区(自民68419、民主41532、共産15068、国民14491)。
これで分かるように野党が乱立すれば自民党が勝つ選挙区だが、野党が統一候補を立てれば逆に野党が勝つ沖縄の特殊事情が存在する。四年前の知事選で稲嶺知事が当選したのはまさしく野党の乱立によって助けられている。今回の知事選は普天間飛行場の移設問題で野党が統一候補を擁立することに成功している。
不確定要素としては北朝鮮が核保有したという東北アジアの新しい事態を迎えて、反基地感情が強かった沖縄県民が、核の脅威をどう感じているかが注目される。一般的にいえば知事選は安全保障という外政が論点にはなり難い。むしろ反基地感情という身近な内政に鋭く反応するのではなかろうか。
神奈川十六区と大阪九区の衆院補選で民主党候補が敗れ、暗雲が立ちこめた小沢民主党にとって、地方選挙とはいえ沖縄知事選は退潮傾向に歯止めをかける重要な選挙と位置付けている。告示後、小沢代表、菅代表代行、鳩山幹事長が沖縄県入りして国政選挙並の応援態勢をとる。
だが沖縄の民主党組織は確立されていないから、社民党、共産党、社会大衆党とタイアップした選挙にならざるを得ない。安全保障政策で水と油の政党と選挙協力するツケは、どう回ってくるのだろうか。折から小沢代表は再訪中している。日米同盟の基本は変えないものの中国寄りのスタンスがかいま見える。
私には小沢代表が沖縄知事選後、民主党の外交・安全保障政策を一歩進めて、左寄りにカーブを切る気がしてならぬ。党内の旧社会党グループにとっては歓迎すべき路線変更になるが、前原グループらがどう受け止めるか気になるところである。小沢氏の過去の軌跡を振り返ると、まったくあり得ない話ではない。
小沢一郎
出生地 出生地・東京市下谷区(現:東京都台東区)
本籍地・岩手県奥州市水沢区(旧:水沢市)
出身校 慶應義塾大学経済学部卒業
日本大学大学院中退
父・小沢佐重喜(衆議院議員)
選出選挙区
(立候補選挙区) 岩手4区
当選回数 13回
所属党派(現在) 民主党(小沢グループ)
昭和17年(1942年)5月24日、東京市下谷区(現:東京都台東区)御徒町に小沢佐重喜・みちの長男として生まれる。本籍地は岩手県奥州市水沢区(旧:水沢市)。3歳から14歳まで水沢に過ごす。 東京都立小石川高等学校卒業後、弁護士になるため東京大学を目指して2浪したが断念して、慶應義塾大学経済学部に入学する。
父の急死により、日本大学大学院在学中の昭和44年(1969年)、第32回衆院選に旧岩手2区から自由民主党公認で立候補し、27歳の若さで当選する。この総選挙を党幹事長として指揮したのが田中角栄で、以後木曜クラブ(田中派)に所属し、田中の下で薫陶を受ける。
党総務局長、衆議院議院運営委員長、第2次中曽根康弘内閣では自治大臣兼国家公安委員長を歴任する。しかし、ロッキード事件により党籍を離れたものの、引き続き派閥の領袖として影響力を保ち続けようとする田中に反旗を翻した竹下登、金丸信らとともに派内勉強会「創政会」を結成。のちに経世会(竹下派)として独立する。竹下内閣の発足後、小沢は党・政府の要職を歴任し竹下派七奉行の一人に数えられた。
竹下内閣では内閣官房副長官に就任。 第1次海部俊樹内閣では党幹事長に就任。自由主義体制の維持を名目に経済団体連合会(経団連)傘下の企業から選挙資金300億円を集め、第39回衆院選に勝利するなどの実績から「豪腕」と称された。
湾岸戦争に関連し国会で公明党の協力を得るため、東京都知事選挙で党都連が推す現職に代わり新人を擁立。しかし敗北したため責任をとり党幹事長を辞任したが、直後に経世会会長代行に就任。名実とともに派閥のNo.2となり、姻戚関係である竹下、金丸と共に「金竹小(こんちくしょう)」と称される。しかし次第に金丸は小沢に派閥を譲ろうと企図するようになり、竹下との確執を深めていった。
海部内閣が政治改革を巡り総辞職を余儀なくされると、金丸から後継首相になるよう説得される。金丸の意を受けた渡部恒三なども必死に説得し、また渡辺美智雄や宮沢喜一などには俺たちは降りるからおまえがやれと言われたそうだが、当時49歳であり若すぎる事を理由に、これを固辞する。また6月に心臓病(狭心症)で倒れ健康不安説が一時期出た。当時の自民党の力学から言って、小沢が受諾さえしていれば総理になれたといわれる。小沢の政治家人生でもっとも総理に近づいた時であった。本人は数年後に「あの時はまだ若すぎたし、健康面での不安もあった」と回顧している。
91年10月10日自由民主党総裁選挙において派閥として支持する候補者を決定するために、出馬表明していた宮沢喜一、渡辺美智雄、三塚博と自身の個人事務所でそれぞれ面談した。しかし宮澤や渡辺のような当選回数・年齢も上の者(三塚は年齢こそ小沢より上だが、当選回数は小沢よりも一回少ない)を自分の事務所に招いたことは傲慢であると批判された。このことは後々まで「経世会支配」「豪腕小沢」の象徴的シーンとして取り上げられた。
平成4年(1992年)、東京佐川急便事件を巡り金丸が世論から激しい批判を受け、派閥会長を辞任、議員辞職した。後継会長に小沢は竹下派七奉行のうち金丸に近かった渡部恒三、奥田敬和らとともに羽田孜を擁立し、竹下直系の小渕恵三を推す橋本龍太郎、梶山静六らと対立。当初中立であった参院竹下派に派閥オーナーである竹下自らが関与して小渕支持を決定、この結果として後継会長は小渕に内定した。政争に敗れた小沢は羽田、渡部、奥田らと改革フォーラム21(羽田・小沢派)を旗揚げし、派閥は分裂した。
宮沢喜一改造内閣での羽田・小沢派の閣僚ポストは、経済企画庁長官(船田元)と科学技術庁長官(中島衛)の2つだけと冷遇された。さらに党幹事長には派閥の後継会長を巡り激しい闘争を演じた小渕派の梶山が就任したことで、羽田・小沢派は反主流派に転落した。小沢はこの苦境を覆すために、持論であった政治改革の主張を前面に立てて、自らを「改革派」と呼び、主流派には「守旧派」とレッテルを貼って世論の支持を獲得しようとした。
平成5年(1993年)2月17日、 佐川急便事件に関して証人喚問を受ける。
野党から宮沢内閣不信任案が上程され、平成5年(1993年)6月18日、羽田・小沢派ら自民党議員39名が賛成、16名が欠席する造反により不信任案は255対220で可決された。宮沢内閣は衆議院を解散した。6月21日には、武村正義、田中秀征らが自民党離党、新党さきがけを結成した。 この事は羽田・小沢派の議員に離党を決断させる一因となり、6月23日、新生党を結成した。小沢は幹事長にあたる党代表幹事に就任するが、党結成の記者会見を行ったとき会場に不在であったため「党首に就任した羽田の陰に隠れて暗躍している」との批判を受けた。
7月18日、第40回衆院選において自民党は過半数割れし、新生党、日本新党、新党さきがけの3新党は躍進した。宮沢は内閣総辞職を表明し、後任の自民党総裁に河野洋平が選出される。
小沢は、総選挙直後から日本新党代表の細川護煕と非公式に会談した。細川は自民党との連立を検討していたが、小沢から首相就任を打診されたことで非自民勢力へと傾斜する。8月9日、8党派連立の細川内閣が成立した。
細川政権下で小沢は内閣とは別に与党の意思決定機関である「連立与党代表者会議」を開き、公明党書記長の市川雄一とともに政権の主導権を握ろうとし、内閣官房長官として官邸主導を狙うさきがけ代表の武村と激しく対立した。
平成6年(1994年)2月3日、細川は未明に突如、消費税を廃止して7%の福祉目的税を創設するという「国民福祉税」構想を発表し、世論の激しい反発にあう。これは小沢と大蔵省事務次官の斎藤次郎を中心に決定したことであったが、社会、さきがけ、民社各党の批判に合い、翌日細川は国民福祉税構想を白紙撤回するに至った。特に官房長官の武村は公然「国民福祉税構想は事前に聞いていない」と発言し、小沢との対立はますます先鋭化する。そのため小沢は細川に武村を外すための内閣改造を要望するも、一連の動きに嫌気がさした細川は、4月に突然辞意を表明した。
細川の突然の辞意は、小沢にとっては寝耳に水のことであったが、直ちに後継首班に向けて始動する。小沢は渡辺美智雄との提携を企図するが、渡辺は自民党離党を決断できず構想は頓挫、連立与党は羽田の後継首班に合意する。しかし、首班指名に先立ち平成6年(1994年)4月25日、新生党、日本新党、民社党などが社会党を除く形で統一会派「改新」を結成したため、社会党の反発を招き、4月26日、社会党は連立政権を離脱を発表する。連立与党側は社会党の連立政権復帰に努力したが、時既に遅く4月28日、羽田内閣は少数与党内閣として成立した。
小沢と羽田の関係に微妙な影が差し始めたのはこの時期からである。羽田内閣は平成6年度予算を成立させたが、少数与党状態の解消をねらって行われた連立与党と社会党との間の政策協議は決裂し、自民党によって内閣不信任案が衆院に提出された。小沢は羽田と相談した上で、解散総選挙を断念。6月25日に内閣総辞職を選択し、羽田内閣は在任期間64日、戦後2番目の短命政権に終わった。
小沢が羽田の後継として狙いを定めたのは、かつて自民党幹事長としてタッグを組んだ元首相の海部俊樹であった。海部は当時自民党政治改革議員連盟会長で、新政策研究会(河本派)代表世話人でもあった。平成6年(1994年)6月29日、自民党は首班指名選挙で社会党委員長の村山富市に投票する方針を示したため、海部は自民党を離党し「自由改革連合」を結成、連立与党の首班候補となる。しかし決選投票で261対214で村山に破れ、小沢は政治家人生初の野党に転落する。新生党内では、愛野興一郎らを中心に、小沢の責任を追及する声も出たが、旧連立与党を糾合して新・新党の結成を実現するためには、小沢の豪腕が必要とされた。9月28日、日本共産党を除く野党各党187人が集まり、衆院会派「改革」の結成を見た。また同日、衆議院議員186人、参議院議員39人、計225人の国会議員による「新党準備会」が正式に発足し、新党準備実行委員長に小沢が選出された。
小沢を中心に新・新党結成が準備され12月10日、パシフィコ横浜で江田五月を大会招集委員長に新進党結成大会が行われた。小沢は党首に海部を擁立し、自らは党幹事長に就任する。
平成7年(1995年)7月、第17回参院選では、改選議席19議席を大幅に上回る40議席を獲得し躍進した。平成7年(1995年)12月に行われた党首選挙では、羽田・細川らを中心に「小沢外し」の動きがあったため、自ら立候補することを決断、長年の盟友である羽田と激突する。小沢は羽田を破り、第2代党首に選出された。しかし直後に投票者名簿が破棄されるなど選挙が不明瞭さを残した事から羽田との決裂は決定的なものとなり、党内に更なる亀裂を生じさせた。
平成8年(1996年)10月20日に第41回衆院選が行われ、新進党は小沢の党党首選での主張を党公約「国民との五つの契約」として消費税率の3%据え置き、18兆円減税を公約したものの、改選前の160議席を4議席減らして156議席を獲得、事実上敗北した。
総選挙後、党内に小沢に対する反発が強まり、離党者が続出した。羽田孜や細川護熙らは非主流派を構成し、平成8年(1996年)12月26日、羽田、奥田敬和ら衆参議員13名は新進党を離党、太陽党を結成する。平成9年(1997年)、小沢は自民党(当時)の亀井静香らと提携する、いわゆる「保保連合」路線に大きく舵を切る。しかし新進党内には、こうした保保連合路線に対して二大政党制を志向する立場から反対する勢力も顕在化し、鹿野道彦は政策研究会「改革会議」を結成する。
12月18日の党首選挙で小沢は鹿野を破り再選された。この党首選に先立ち公明が次期参院選を独自で闘う方針を決定し、新進党離れが加速する。党首に再選された小沢は、純化路線を取り、新進党内の旧公明党グループ・公友会、旧民社党グループ・民友会にそれぞれ解散を要求。12月25日に小沢は旧公明党の参院議員を分党し公明に合流させるとし、新進党の解党と新党の結成を発表した。新進党内は蜂の巣をつついたような混乱に陥り、解党を決定した両院議員総会は、混沌の内に終わった。
平成10年(1998年)1月6日、自由党を結成、小沢は党首に就任する。当初、100名以上の衆参両議員が集まると思われたが、結局、衆院議員42名、参院議員12名の計54名が参加するに留まり、野党第1党の座を民主党に譲り渡した。
平成10年(1998年)7月12日の第18回参院選では苦戦必至と思われていたが小沢人気もあり比例代表で514万票、合計6議席を獲得し善戦した。参院選後の臨時国会では、首班指名に民主党代表の菅直人を野党統一候補に臨み、参院では自民党の小渕恵三を抑え菅が指名された。(衆院では小渕が指名されたため、衆議院の優越の原則から小渕が首相に就任した。)小沢は参院での野党共闘により政府・自民党を追い込む戦略であったが、菅は「政局にしない」と発言、金融再生法の制定で自民党と協力したことにより野党共闘はほころびを見せた。
平成10年(1998年)10月、小沢は内閣官房長官の野中広務と会談、連立交渉を開始する。そして紆余曲折を経て平成10年(1998年)11月19日、小渕首相との間で自自連立政権について合意した。
平成11年(1999年)1月14日正式に自自連立政権が成立し、党幹事長の野田毅が自治大臣として入閣、小沢は5年ぶりに与党へ復帰する。 議員定数50削減、閣僚ポストの削減、および政府委員制度の廃止と国会改革がこの連立の主な成果として挙げられる。
平成11年(1999年)7月、公明党が政権に参画し、自自公連立政権が成立する。自民、公明両党で参院の過半数を抑えることになったため政権内部での自由党の存在感は低下していった。自自両党の選挙協力も遅々として進まず、小沢は小渕に対して自自両党の解散、新しい保守政党の結成を要求した。両者は平成12年(2000年)4月1日、会談するが、合意に達せず、結局連立を解消することになる。この直後、小渕は脳梗塞に倒れた。
自由党は、小沢を支持する連立離脱派と野田毅、二階俊博などの連立残留派に分裂し、残留派は保守党を結成する。小沢と袂を分かった保守党側は、半分に分裂するのだから政党助成金を半分づつ分け合うために分党を要求したが、自由党側はこれを拒否。保守党議員は離党扱いになり、政党助成金を全く得られず総選挙を迎えることになる。分裂の結果、自由党の勢力は、衆議院議員18名、参議院議員4名、計22名に半減した。
しかし分裂直後に行われた平成12年(2000年)6月25日の第42回衆院選では苦戦が予想されたが小沢人気もあり比例代表で約660万票を獲得、現有議席を上回る22議席を獲得し善戦する。このとき約20億円投じたとされるテレビCM(小沢が顔を殴られる)は話題になり、自由党が善戦した要因の一つとされる。
平成13年(2001年)1月、将来の指導者育成を目指し、党内に小沢一郎政治塾(小沢塾)を開設した。小沢塾は民主党との合併後、小沢個人の私塾として運営されている。
平成13年(2001年)7月29日の第19回参院選では小泉ブームで自民に追い風が吹き、小沢王国である参院岩手選挙区も大苦戦を強いられたが、なんとか僅差で勝利し面目を保った。しかし、議席数は前回と同じ6を維持したものの、自由党の比例代表は約420万票にとどまった。
平成14年(2002年)、民主党代表の鳩山由紀夫は、党内の求心力を強化するため野党結集の必要性を感じ、小沢に接近した。小沢も自由党で選挙を戦うには限界を感じていたため、2人の思惑が一致した。
鳩山は民主党と自由党の合併に向けた協議を行うことを発表するが、党内調整が不十分であったため、求心力を強化するつもりが皮肉にも求心力を失い代表辞任を余儀なくされる。党代表に再び選出された菅直人は鳩山路線を引き継いで民由合併を促進、菅と小沢の間で合併は党名・綱領・役員は民主党の現体制の維持と言うことで合意が成立する。また選挙が近いという議員心理が合併を後押ししたと思われる。
平成15年(2003年)9月26日、自由党は民主党と正式に合併し、小沢は党代表代行に就任した。平成15年(2003年)11月9日の第43回衆院選で民主党は政権交代への期待もあり公示前議席よりも40議席増の177議席を獲得した。
民由合併後、小沢が最初に提携したのが旧社会党系の横路孝弘だった。小沢と横路は安全保障面での政策が完全に一致し、その後横路と旧社民勢力は小沢と行動を近くすることになる。また小沢は野党結集のために社民党へも民主党への合流を呼びかけたが、これは失敗した。(2005年の郵政解散直後は社民党が民主党に対する批判を控えて民主との合併を匂わせる態度を見せるも対中強硬派の前原が代表に就任したためか一旦流れている)
民主党に移った小沢はそれまでの新自由主義一辺倒から「地方経済」と「雇用」の重視の方針を打ち出した。
平成16年(2004年)5月、年金未納問題による混乱の責任を取り党代表を辞任した菅直人の後継代表に内定。しかし直後に小沢自身も国民年金が強制加入制度になる昭和61年(1986年)以前に未加入だったとして代表就任を辞退した。代わって党幹事長だった岡田克也が代表に就任した。
平成16年(2004年)7月11日、第20回参院選では政府与党の年金法案が争点となり、それに反対した民主党に追い風が吹き、選挙区と比例代表合わせて50議席を獲得し、改選議席数で自民党(49議席)を上回る勝利をおさめた。小沢は参院選後、岡田の要請により党副代表に就任。
平成17年(2005年)9月11日、郵政民営化の是非を争点にした第44回衆院選が行われる。争点の設定に成功した自民党に追い風が吹き、郵政民営化に対する対立軸を示せなかった民主党は惨敗する。岡田は党代表の辞意を表明。小沢の片腕と言われ、党派を超えて一目置かれていた藤井裕久も落選・引退する。党代表に前原誠司が選出され、小沢は党代表に次ぐポストである党代表代行就任を依頼されたが、岡田執行部の党副代表であり総選挙惨敗の責任の一端があるとして、これを固辞した。
平成18年(2006年)3月31日に前原誠司がいわゆる「メール問題」の責任をとる形で党代表辞任を表明した後、小沢は「先頭に立って党を再生して政権交代ののろしを上げる決意」と記者会見で述べ、後継代表に名乗りをあげた。
平成18年(2006年)4月7日に行われた民主党代表選で菅直人を破り、第6代の党代表に選出された。代表選後、小沢は、党を挙党一致体制にするため、党代表の座を争った菅を党代表代行・鳩山由紀夫を党幹事長にするトロイカ体制を決断(3者会談は党の最高意思決定機関として機能している)、また前執行部と、その次の内閣を全員残留させることにより挙党一致を党内外に強くアピールした。
小沢が党代表に就任した直後、平成18年(2006年)4月23日の衆議院千葉7区補欠選挙では、メール問題での混乱や都市部補欠選挙特有の低投票率が予想されたため当選は不可能だと思われていたが、小沢新代表への期待が高く、僅差ながら勝利した。これにより選挙に強いという小沢神話が復活し党内の求心力が高まる。平成18年(2006年)9月の党代表で再選することが確実になった。
平成18年(2006年)5月9日の会見で、衆院本会議を欠席しがちな理由として「食後すぐに仕事にとりかからないなど、医者の忠告を守っている」と自身の体調管理を挙げたことに関し、「議会軽視だ」「議会人として考えられない」などの批判が各方面から相次いだ。また、あえて自身の健康状態を語ったことに対して様々な憶測が流れた。
平成18年(2006年)7月30日、郵政政局で自民党を離党した川上義博元衆議院議員と会談し、川上が民主党入りすることが決まる(10月6日に小沢代表が来県し参院選鳥取選挙区からの出馬が内定)。また郵政造反組との接触が目立つ。
平成18年(2006年)9月12日、小沢が無投票で民主党代表に再選された。任期は2年。菅・鳩山とのトロイカ体制を基軸にした挙党一致体制の維持が確認された。
平成18年(2006年)9月25日、狭心症の兆候を感じたため、臨時党大会で正式に代表に再選された後、都内の病院に検査入院をする。平成3年(1991年)に狭心症で入院した過去もある。10月5日に退院し、自身の動脈硬化が進んでいることを明らかにした。
平成18年(2006年)10月22日の衆議院神奈川16区・大阪9区補欠選挙は、神奈川16区の選挙責任者を党代表代行の菅直人、大阪9区の選挙責任者を党幹事長の鳩山由紀夫で役割分担をし、総力戦を展開した。しかし、両選挙区とも数万票差で自民党候補に敗れた。北朝鮮による核実験、安倍政権誕生、弔い選挙といったことが理由であるとの見方が多い。また、北朝鮮核問題で党としての態度を明確にしなかったことが原因とする意見もある。
補選と同じ日の10月22日に鈴木宗男氏と会談。来年の参院北海道選挙区での候補者調整や北海道知事選での共闘で合意した。
小沢の国会での論戦は今までの民主党の「対案路線」ではなく、「対立軸路線」で与党とは対決姿勢を鮮明にしている。与党が数の横暴で強行採決した場合には審議拒否も辞さない姿勢を示している。
自身の政治理念、政治的信念に関しては一切の妥協をしない。特に憲法・国際法・国際機関の憲章などの原則には厳格である。一方で、中期的・大局的な時代の流れに関してはむしろ柔軟に対応する。それをブレていると批判する声も一部にはある。政党をつくっては壊す過去に不信感を抱かれ、非難される事もあった。しかし現在はニュー小沢として党内外へ向けてのイメージ向上に努めている
靖国神社・・・行く行かないは個人の自由。ただし公約をし、政治信念で行くのならば8月15日に公式参拝を行うべき。
靖国神社は戊辰戦争の招魂社だと言う問題がある。私は賊軍である岩手の出身。
招魂社問題よりも日中関係の視点で捉えたほうが理解を得られる。
A級戦犯・・・ 東京裁判は不当な報復裁判であり、A級であろうがB級であろうがC級であろうがそういう問題ではない。ただし当時の国家指導者は敗戦責任があり、天皇陛下が参拝できるよう靖国神社から分祀すべき。
防衛・・・「専守防衛」に徹する。
集団的自衛権・・・集団的自衛権は我が国が急迫不正の侵害を受けた場合に限って行使。戦争には前線も後方支援も関係はない。
「集団的自衛権」(イラク戦争型)の行使・・・ 一部国家による有志連合の参加には反対。
「集団安全保障」(湾岸戦争型)の行使 ・・・各国が容認した国連軍、多国籍軍の参加には賛成。
国連待機軍・・・憲法を一部改正して国連待機軍を創設し、自衛隊は国防に専念させる。
田中角栄は「黙々として人のために汗を流している。愚痴はいわない。こういう奴がのびる」、「小沢一郎というのはえらくなる。あれはそこらの連中とはモノがちがう」と評した。角栄の長男は5歳で早くに亡くなったが、その長男と小沢は同じ1942年生まれであったため、角栄は小沢を息子のようにかわいがった。
田中派から独立した経世会に所属した国会議員で唯一、田中の裁判をすべて欠かさず傍聴した。旧田中派の中では唯一田中家・田中真紀子から許されているため、現在でも命日には田中家を訪問している。そのため親交が深く、田中真紀子の自民党離党、民主党会派入りに小沢は尽力している。また、「政治の父は田中角栄」と公言している。
金丸信は小沢、羽田孜、梶山静六の3人を「平時の羽田、乱世の小沢、大乱世の梶山」と評した。 石原慎太郎は「私は彼を評価しません。あの人ほどアメリカの言いなりになった人はいない」と評した。
「豪腕」「壊し屋」「日本最後の政治屋」と称され、「政治とは権力闘争である」という政治観の持ち主である。平成不況の最中、政治改革などを主唱して権力闘争に明け暮れていると見た財界主流派からは批判された。
「(議員の)数は民主主義」と常に唱え、また実行しているため、手段を選ばない政治家だと誤解されることもある。与党には数は民主主義なのだから何でも自由に決めればよいと常に言っているが、「(野党との)議論を尽くせば」という前提がある。
愛称は、いっちゃん。周囲からは東北人気質も相まって朴訥な人物と評されている。そのことから説明する努力に欠け、側近が離れる一因となっていると指摘される。本人曰く「去るもの追わず。来るもの拒まず」
趣味は、釣り、囲碁など。また熱心な漫画愛好家で、自宅には漫画専用の本棚がある。 「胡錦鳥」と言う小鳥を40~50羽飼っている。 柴犬を飼っている。名は「ちび」。19歳と高齢なため今は散歩はできない。
補選でのCMに柴犬の「もも」を起用。補選で「もも」は小沢代表や候補者たちの応援に出向き話題をさらった。小沢氏いわく「もも」は愛犬「ちび」によく似ているらしい。
歴史上の人物では、西郷隆盛を尊敬するものの、政治家としては、大久保利通を目指していると述べている。
党内外での小沢アレルギーは強いが、若手よりも当時を知る議員に強い。「独断専行、側近政治、顔が見えない」との批判や、自民党分裂とその後の分裂工作、新進党分裂・解党の後遺症が挙げられる。
新生党代表幹事時代には番記者との懇談会を廃止し、これまでの記者クラブ中心の会見から海外メディアや週刊誌記者なども会見に参加できるようにし注目を集めたが自分の意に沿わぬ記事を書いたメディアと対立を起こしたりした。
自民党離党直前に発売した「日本改造計画」は政治家出版の書籍としては異例の70万部を超える売上を記録し、平成5年(1993年)を代表するベストセラー本に。自らの政策・政見を広く国民に問うもので、小沢の理念を基に官僚や専門家を中心に政策としてまとめた。また続編も計画されていて注目を集めている。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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