277 器用だった鄧小平 渡部亮次郎

鄧(とう)小平には2度会った。1978年で、1回目が8月10日午後6時半(日本時間午後5時半)、北京の人民大会堂。園田外務大臣とおよそ2時間の会談。
とにかく5尺(150センチ)に届かない小男がテレビのライトを浴びながら歩いてきたので驚いた。毛沢東を悩ませた男がこんなに小さいのか。
私は日中国交回復の田中角栄総理に同行して1972(昭和47)年9月に北京を初訪問したが、その時、鄧小平氏は失脚中で姿を見る事はできなかった。したがって毛沢東の死後、政治路線を決定的に変える人物がいるということも知らずに帰ってきた。
あれから6年後、園田大臣は「ワシは必ずあの痰壷へ痰を吐いて見せるぞ」と言っていたが、会談の途中、立ち上がったと思ったら、鄧小平の足元の痰壷へペッとやった。鄧さんびっくり。
2度目が10月23日午前10時半、東京・永田町の総理官邸での日中平和友好条約批准書交換式で。翌日の夜、築地の料亭新喜楽で黄華外相歓迎宴を園田さんが開いたところ、鄧氏も加わり、メイン・ディッシュの刺身を目をつぶって飲み込んだ。肝臓ジストマを怖れたのである。
肝臓ジストマとは淡水魚を食べることによって感染する肝吸虫。痰肝炎、黄疸、下痢、肝腫大などを起こす。中国内陸部の人々はこれを怖れるので海の生魚も最近までは食しなかった。
<新喜楽(しんきらく)は、東京都中央区築地にある老舗の料亭。店主は代々の女将が務めている。初代女将の伊藤きんと姓が同じであったこともあり、初代総理大臣伊藤博文がよく利用していたという。
政財界の有力者を得意客としていた。 元首相、佐藤栄作が1975年に倒れたのもこの店であった。
芥川賞・直木賞の選考が行われる場所としても知られている。
建物は関東大震災後に建設されたものをベースに、1940年以降、建築家吉田五十八が度々増築・改修を手がけており、新興数寄屋の名作でもある。>出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
鄧氏はニッサン・プレジデント1台をプレゼントとしてなんということもなく日産から受け取り、新幹線を体験し、大阪から帰国した。1989年6月4日、大虐殺の第2次天安門事件を遺して1997年2月19日逝去。92歳。
遺言により墓は造られず遺灰は海に撒かれた。昔の権力者が死後、墓を暴かれたのに学んだか。とにかく毛沢東は中国に共産党を遺したが、鄧小平はその下に資本主義経済を遺し、世界有数の「矛盾」大国中国を遺した。
鄧小平は若い頃、数年間、パリで労務者として働いた。周恩来もおり、入手不可能の豆腐を2人で作って売り出した。滞在中の中国人のみならずフランス人の客も増え、中国共産党パリ支部の活動を支えた。
これに止まらなかった。鄧小平は文化大革命中の2度目の失脚では3年半、江西省南昌市の工場で労働改造に日々を送ったが自ら料理を作った。夫人卓琳さんは料理が全くできず、パリでみがいた腕で鄧氏自らが料理を作った。「卓琳は食材を買って来て洗うだけだった」そうだ。
パリ時代に共産党に入党し、機関誌『赤光』のガリ版印刷を担当。その出来は出色であった。鄧小平の書いた文字は整って美しく、印刷は鮮やか、装丁は優雅、殆ど活版に劣らないほどであった。同志たちは「油印博士」と呼んだと言う。極めて器用だったのである。逆に理屈だけを並べる空文家を嫌った。
彼の父・鄧文明は妻4人との間に4男3女計7人の子を設けた。長男が鄧小平である。姉1人、弟3人、妹2人ということになる。正式の名は「先聖」、入学に当って用いられた名は「希賢」。「小平」と名乗ったのは1927年夏(23歳)、蒋介石の上海クーデタ直後に武漢で秘密工作に従事した時以来。
鄧氏は結婚を3度した。1度目は23歳の時。流産のため死亡。2度目は28歳の時。しかし、不遇の時に寝取られた。1939(昭和14)年の終わり、35歳の鄧小平は延安で23歳の浦卓琳と結婚。2男3女を設けた。
最晩年の鄧家は18人家族であった。
<悪妻に悩まされ、孤独な晩年を送った毛沢東、実子に恵まれなかった周恩来夫婦の寂しさに比べて、「孫たちを見ていると心が和んだ」鄧小平の晩年は、革命家の晩年としては最も恵まれたものだった>(矢吹晋横浜市立大教授)。
1938(昭和13)年生まれの中国研究者矢吹晋(やぶき すすむ)さんの著書『鄧小平』(講談社学術文庫)を読み進みながら、考え付いたことをあわせながら書き連ねて行きます。2006.11.13

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