共産・中国が国連に加盟する前のタイワンに行ったことがある。訪台記者団の総秘書長という訳が分からない役目を引き受けて、台北から軍用機で金門島に渡り、そこから左営の海軍基地で大陸に潜入するフロッグマン部隊を視察、タイワン南部の第二の都市・高雄に行ってアメリカの第七艦隊をみた。
折からベトナム戦争の最中。蒋介石の国府軍のベトナム派兵が焦点となっていたので、現地視察をするのが目的であった。日本の支那派遣軍の元高級将校が蒋介石の招きでタイワンに密かに渡り、国府軍の軍事指導に当たっているといわれていたので、それを探る目的もあった。
高雄から台北までタイワンの特急列車に乗ったのだが、中間点の台中で下りてバスで景勝の地である日月潭(じつげつたん)まで行った。そこで蒋介石と面会した。私たちの一人ひとりと握手してから記者会見をしたのだが、蒋介石の手が柔らかった記憶が残る。一九六八年のことである。四年後の一九七二年七月に蒋介石は心臓発作を起こして倒れ病床に臥したが、一九七五年四月五日に他界している。
ベトナム派兵について蒋介石は「軍事三、政治七が、わが国の立場」と明言を避けたが、このあと台北で息子の蒋経石国防部長と会ったら「光復大陸が国是」と言った。いずれもはっきりベトナム派兵を否定したわけではない。タイワンの国土のいたるところに光復大陸の大看板が立てられていた。光復大陸とは大陸反攻のことである。
蒋介石も蒋経石も明言を避けたのだが、タイワン各地の軍事基地をみた私にはベチナム派兵の緊張した動きが感じられなかった。旧友で高雄の民衆日報のオーナーである李哲朗に私の判断を言ったところ「蒋介石の虎の子軍隊である国府軍をベトナム派兵に使う筈がない」と派兵に否定的であった。
しかし文春文庫「蒋介石」を書いた保阪正康氏は「蒋介石はベトナムへの義勇軍の派遣を(アメリカに)申し入れたが、アメリカはそれは中国を刺激するとの判断からまったく応じなかった」としている。米側資料から、その結論を得たのであろう。一九七一年に米中和解が成り、その年の十月国連総会で「中華民国を(国連から)追放し、中華人民共和国を招聘する」アルバニア案が可決されている。
歴史を振り返ると民主党のケネデイ大統領の下で始めたベトナム戦争は、泥沼化の様相をみせ始めていた。共産・中国と事を構える余裕はない。撤兵の選択肢しか残されていなかった事情は、今のイラク情勢と似ている。
一方、タイワンは政治、外交、軍事、経済の面でアメリカに依存してきた。そのアメリカは一九七二年二月に共和党のニクソン大統領が北京訪問をして、毛沢東と歴史的な会談を行って「中国は一つであり、タイワンは中国の一部だという(中国の)認識を理解する」という北京声明をだしている。この内容は蒋介石には事前に知らされていない。折りしも中国は一九六四年に原水爆実験に成功している。
歴史は繰り返すかもしれないし、中国がタイワンの武力解放に踏み切った時に、アメリカが米中衝突を覚悟で、タイワン防衛に回るのか疑わしい。日本はアメリカ頼みだけで、すべてを預けるのではなくて、自立の道も用意しておいた方が賢明ではないか。
278 柔らかい手の蒋介石 古沢襄

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