私の海外旅行は得てしてカバンひとつを下げて、一人で行くことが多かった。ホノルル、ロサンゼルス、サンフランシスコ、ニューヨーク、ワシントン、ロンドンなどは一人旅であった。現地では空港に支局長が出迎えにきてくれる。厳密な意味では一人旅ではないのかも知れないが、それでも往路は日航や全日空を使わず、相手国の航空機に乗った。
英語が堪能なわけでないが旅行会話ぐらいはできると密かに自信があった。耳も悪くはない。しかしホノルルからロスに向かう機中で、昼食時にぶつかったため、スチューアーデスからベラベラと注文を求められ、言っていることが分からなくて困った。三種類のメニューのどれがいいのか、と言っているのだが、そのメニューの説明が分からない。
見かねたのは隣席の中老のオバサン。そのうちの一種類を指して、これがいいと言ってくれた。それからロスに着くまでいろいろと話しかけてくれたが、言っている意味が半分も分からない。適当に応答したが、アメリカ人の親切さだけは身にしみて知ることができた。
失敗もある。ロンドンでロイター通信社の幹部を招待するために手持ちの円をポンドに両替するつもりで、ホテルのフロントで十万円をポンドに替えてくれと頼んだ。ロンドンでは一流中の一流ホテルで、しかも私の部屋はかなりハイクラス。
ところがホテルマンたちが鴨の総立ちになって、右往左往するので、こちらの方が驚いた。間もなくロンドン支局長がきたので、騒ぎは納まったのだが、十万円をケタ違いの一億円と言ったと分かった。でも当人は平然としているので、私を東洋の大金持ちと勘違いしたらしい。
それからはホテルのドアマンが、私の出入りの度に直立不動で挨拶するし、朝食で食堂に行くと三人もついてくれて、食事するのも煩わしくしてならない。普通の人なら、早々にホテルを変えるのだが、心臓に毛が生えている私のことだ。やせ我慢して退散することはしなかった。ロンドンから帰国する時は日航機にした。機内食の素麺が少し固まりかけていたが、涙がでるほどうまかった。それ以来、海外では英語は使わない。
ロシアや東南アジアはグループを編成し旅行社から添乗員がつくので、気楽な旅になる。だが一人旅のように自由気ままとはいかないので面白味がない。成田を発って現地のお決まりコースを回って帰るだけのことになる。
だがロシアでは私の英語が通用した。こちらはブロークン・イングリッシュだが、相手のロシア人もブロークン・イングリッシュ。結構、日常会話はブロークン・イングリッシュ同士でこと足りる。分からなければ手真似を多用すればよい。あとは押しと心臓。単語を並べるだけで、こちらの意が通じるから、やたらと英語が使いたくなる。
この一、二年体調を崩して海外の一人旅ができないでいるが、来年あたりは七十五歳を記念してロシア旅行か、世界一の美女の産地アルメニア旅行をしたいと思っている。さすがにアメリカやイギリスには行く気が起こらない。
282 一億円で鴨の総立ち 古沢襄

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