幕末の日本をめぐる諸情勢と現在の日本が置かれた情勢には一脈相通じるものがある。ともに永らく平和を享受してきたが、外敵に備える果断な方策に欠けていた共通点がある。幕末にはヨーロッパ列強の軍艦に備える”海防思想”が薩摩藩、長州藩、土佐藩などから澎湃として起こっているが、現代では北朝鮮のノドン・ミサイル、核保有、日本人拉致が日本の国防意識を覚醒させようとしている。
もう一つの共通点は幕藩体制の下で財政破綻を喫し、徳川吉宗による享保の改革、松平定信による寛政の改革、水野忠邦による天保の改革などが試みられたが成功していない。江戸は繁栄したが、地方の農村は困窮するばかりで百姓一揆が多発している。徳川幕府の財政改革は節約令という縮小均衡型に偏り、新田開発という拡大生産型が中途半端だったのが失敗の一因だったと思う。印旛沼の干拓という大プロジェクトも途中で放棄している。
現代では橋本内閣の財政改革が大蔵省主導型だったがために、日本経済の活力を減殺させた一因となった。一国が繁栄の坂道をあがる時には拡大生産型が機能することが必要条件になる。縮小均衡型では一時的には財政均衡がとれるが、全体のパイが小さくなるので、問題の抜本的な解決にはならない。
財政破綻が顕在化すると為政者の国防意識が二の次になる。最後の改革者となった水野忠邦は、徳川御三家の一つである水戸藩主・徳川斎昭(烈公)が献策した蝦夷地(北海道)の開拓策を退けている。
烈公はロシアの南下策に警鐘を鳴らした最初の人物。そのためには蝦夷地の開拓を進め、北方の守りを固めることを唱えたのだが、水野忠邦は取り合わなかった。ロシアを刺激することを怖れたのであろう。水野忠邦は天保の改革が急進的であったがために改革の実績があがらず、老中職を解任される寸前にあった。蝦夷地の開拓どころではない、といった心境にあったのだろう。
しかし幕府の台所をよそにしてヨーロッパ列強の目は清国から日本に移っている。為す術がない幕府は右往左往するだけで、この様な幕府に見切りをつけて長州藩が討幕に踏み切った。長州藩はイギリス、アメリカ、フランス、オランダの連合艦隊によって下関を砲撃され、上陸した陸戦隊が長州藩の砲台を占領するという苦渋を味わっている。
徳川御三家の一つである水戸藩からも藤田東湖という政治思想家が出て、勤王の志士たちの理論指導者として重きを為した。日本が近代国家に脱皮するためには幕藩体制に見切りをつけて、京都の朝廷を中心とした新しい政治体制の確立が急務だとしている。烈公の蝦夷地開拓策が葬られた水戸藩としては、幕府は頼むに足らずということであったろう。
明治維新の前夜を振り返ると、歴史は繰り返されると思わざるを得ない。財政の改革は疎かに出来ないが、優先順位はこの国を守ることが先である。日本人の国民意識も、その方向に動いている。平和は寝ていては保てない。
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