299 難中の難事だった「松陰伝」 古沢襄

山口県の萩市を訪れたことがある。長州藩の私塾「松下村塾」で木戸孝允、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋など育てた吉田松陰が生まれたところである。山口県人は吉田松陰を敬愛してやまないが、これまで「松陰伝」を書くことは難中の難事とされてきた。
門下生の高杉晋作が松陰の年譜だけでも作ろうと努めたものが、断片的に伝えられていて、これが最古の資料ではなかろうか。司馬遼太郎はこの難事に取り組み「世に棲む日日」全4巻を著している。
明治時代に野口・富岡共著の「吉田松陰傳」(明治24年)、徳富蘇峰の「吉田松陰」(明治26年)、大正時代に杉浦・世木共著の「吉田寅次郎」(大正4年)が発刊された。いずれも史実と伝記の間に違いがある。
本格的な吉田松陰の伝記は昭和11年に岩波書店からでた玖村(くむら)敏雄の「吉田松陰」ではなかろうか。出典を詳しく明記されていて、漢文の原本を平仮名とし、略字は正字に統一し、明らかに誤記と思われるものは訂正してある。
同じ年に山口県教育委員会が編纂した「吉田松陰全集」全十巻が発刊されているが、この編纂に携わった玖村敏雄は、第一巻に松蔭の伝記を執筆している。それを増補して岩波書店から発刊したのが、玖村の「吉田松陰」。「吉田松陰全集」全十巻は神田の慶文堂古書目録にでているが六万五千円という高値がついている。
松陰の教えで注目されるのは、尊王論を奉じながら、直ちにこれを討幕論に結びつけなかったことである。「大敵外にあり。国内相責むるの時ならんや。まさに諸侯と心を協へ(協力)、幕府を規諫すべくともに強国の遠図を策すべきのみ」と論じている。目は国内ではなく、ヨーロッパ列強のアジア侵略に注がれている。これは水戸藩の藤田東湖の影響によるものであろう。
単なる討幕論者でなかったことは、米国のペリー艦隊の来航を見て、外国留学の意志を固め、同じ長州藩出身の金子重輔と長崎に寄港していたプチャーチンのロシア軍艦に乗り込もうとして失敗。さらに ペリーが日米和親条約締結の為に再航した際にも、門弟と二人でポーハタン号へ赴き密航を訴えるが、拒否されて幕府に自首し、長州藩へ檻送され野山獄に幽囚された一事でも分かる。
松蔭は幕府によって江戸伝馬町の獄において斬首刑に処され、二十九歳の若さでこの世を去った。獄中で遺書として門弟達に向けて「留魂録」を書き残している。東湖といい松蔭といい、惜しい人材が明治維新の夜明けを待たずに死んでいる。
<吉田松陰(よしだ しょういん)天保元年8月4日(1830年9月20日) – 安政6年10月27日(1859年11月21日))。江戸時代後期、幕末期の思想家、教育者、兵学者。明治維新の事実上の精神的理論者である。
幼時の名字は杉(本姓不明)。幼名は大次郎、虎之助で杉虎之助または杉大次郎。養子後の名字は吉田、通称寅次郎で吉田寅次郎。本姓は藤原を称す、諱は矩方(のりかた)で藤原矩方。字は義卿、号は松蔭の他二十一回猛士。変名は松野他三郎、爪中万二。
松陰は「天下は一人の天下」と主張して、明倫館の山県太華と論争を行っている。「一人の天下」というのは、国家は天皇が支配するものという意味で、天皇の下に万民は平等になる。一種の擬似平等主義であり、幕府(ひいては藩主)の権威を否定する過激な思想とみられた。
吉田松陰の故郷である山口県萩市には誕生地、投獄された野山獄、短期間ながら教鞭をとった松下村塾、遺髪を埋葬した松蔭墓地、祀った松蔭神社等がある。 東京の世田谷区の墓所にも松陰神社が存在する。余談ではあるが、この松陰神社の墓所と、松蔭を死に追いやった井伊直弼の墓所(豪徳寺)とは、直線距離で1kmも離れていない。
刑死後、隣接した小塚原回向院(東京都荒川区)の墓地に葬られたが、1863年(文久3年)に高杉晋作ら攘夷派の志士達により現在の東京都世田谷区若林に改葬された。現在も回向院墓地にも墓石は残る。
世田谷区の墓所には1882年(明治15年)に松陰神社が創建された。また、生地の山口県萩市では死後100日目に遺髪を埋めた墓所(遺髪塚)が建てられた(市指定史跡)。また萩市にも1890年に建てられた松蔭神社(県社)がある。また、靖国神社にも祀られている。>出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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