十二月一日、暦が替わっただけなのに急に慌ただしくなった感じがする。年の瀬、師走、お歳暮、年賀状書き・・・。珍しく朝四時起きした。わが家はまだ暖房を入れていない。二月生まれの私は寒さが気にならない。
昨夜、読みかけの中西輝政著「大英帝国衰亡史」を開いてみる。本というのは繰り返し読む度に新しい発見をすることがある。第六章の「ボーア戦争」の蹉跌の中で、イギリス人の知的エリートが、ささやかな(?)辺境戦争の挫折によって、大英帝国の終焉を予感した様が描かれている。
ロンドンでロイター通信社の幹部を招待して会食したことがあったが「イギリス人の知的エリートは、ボーア戦争と第二次世界大戦で日本に敗れた二つの教訓を忘れていない」と言われて奇異に思ったことがある。「第二次世界大戦で日本は敗戦国となり、イギリスは戦勝国だったではないか?」と疑問をぶつけたのだが、イギリス人の受け止め方は違っていた。
アジアにおいてはイギリスは香港、シンガポールを失い、プリンス・オブ・ウエールズとレパルスという英太平洋艦隊の主力戦艦を一挙に撃沈された・・・イギリスはアジアの戦争で日本に敗北したというのである。それはまたアジアにおけるイギリスの権益を失う象徴的な出来事だったという。
イギリス人のエリートの多くは、ケンブリッジ大学やオクッスフォード大学の卒業生なのだが、官僚志望者には法律学よりも歴史学教育に重点を置いて教育を施すという。戦後日本のエリート官僚は東大法学部出身者が多かったが、歴史学よりも法律学教育に重点が置かれてきた。広い意味での歴史的視野が施されてきていない。
戦後日本のエリートといえば、塾通いをして有名私立の中高一貫教育学校に合格し、東大など一流大学を目指して、卒業後は大蔵省や大手企業に入る人を指した時期があった。キャリア組とも言った。この人たちが敗戦後の日本の再建に貢献した事実を認めるのに吝かではない。だが本当の意味でのエリートだったのだろうか。
これは自己流の解釈になるが、エリートとは自己犠牲を厭わない者を指すと考える。少なくとも東洋的なエリート、とくに支那的なエリート思想にはそれがある。”選ばれた者”の必須条件は世間的な名声ではない。孔子の思想が今もって生き続けているのは、それがあるからではないか。
欧米流のエリート(仏:elite)とは、厳しい選抜と高度な専門教育を受け、ある特定の方面に於ける役に立つよう、充分に訓練されている人たちと狭義の解釈をしている。だから政治的エリート(パワーエリート)、経済的エリート、文化的エリート、軍事的エリート、スポーツエリートといった分類が生じる。戦後日本のエリートは、この色彩が強い。
私は幕末の各藩が設立した士族の子弟教育に興味を持っている。代表的なのは水戸藩の藩校弘道館。「弘道とは何ぞ。人よく道を弘むるなり。道とは何ぞ。天地の大経にして生民の須臾(しゅゆ)も離るべからずものなり」が建学の精神。儒教と神道の一致が根底にあるが、この弘道館をモデルにして各藩の藩校が設立されて、明治維新の原動力になっている。
道の思想は、支那から伝わった儒教精神に影響されている。自らに厳しく、他人に優しい心根は戦前の道徳思想にあった。だが敗戦によって道の思想は断絶している。代わって個人主義が最高の規範となった。このご時世に儒教だの自己犠牲だのと言っても誰も振り返らない。教育基本法を変えても、この時代風潮は変わらないであろう。
いまどき「子曰、朝聞道、夕死可矣(子の曰わく、朝に道を聞きては、夕べに死すとも可なり)」と論語の一節を教えても、子供たちの胸には響かない。そして道に背く”親殺し子殺し”が日常茶飯事のように新聞やテレビを騒がす。自分さえ良ければいいのだから、幼児を誘拐したり、殺したりしても罪の意識が希薄である。
アメリカは建国の歴史が浅いというが、戦後日本の歴史はもっと浅い。僅か六十年余りに過ぎない。それまでの一千九百年余りの歴史を見事に捨て去ったのだから、戦前と戦後が繋がっていない。戦乱に明け暮れたヨーロッパでは、こういう現象がみられない。それだけアメリカの占領政策が成功したと言えるが、アメリカが悩む社会現象が日本に直輸入されて、その処方箋が見つからないというのも皮肉といえば、これほど皮肉なことはない。アメリカ化された日本の漂流はいつまで続くのであろうか。
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