308 「二千年の花」つゆ草 古沢襄

安藤宮崎県知事の周辺が慌ただしくなっている。取材に汗を流している記者たちには申し訳ないのだが、この知事が辞職しようが逮捕されようが、あまり関心がない。しかし宮崎県の名が新聞やテレビに出るようになって、宮永真弓という新聞人のことが懐かしく想い出される。
祖父は宮永真琴・・・幕末の宮崎で活躍した勤王の志士である。剣柄(けんのつか)神社の神職の子だったが、八歳で漢詩を詠み、詩文・和歌・俳句にも非凡な才能をみせた。やがて皇学を学び、勤王の大義を唱えて決起の日を待った。しかし幕命を受けた人吉藩の相良氏によって捕らえられて幽閉されている。
維新後、真琴は剣柄神社の神職を継ぎ、稲荷信仰の本拠としての名を高め、伝統行事の継承と充実に努めた。一方では高岡郷第一郷校の漢籍教授を勤め、幾多の俊才を育てた。晩年を医業にささげたが、死後5年を経た1913年(大正2)年5月、時の県知事有吉忠一は、その業績をたたえて“追美の章”を贈った。
          短夜や空行く月も急ぐらし  真琴
祖父・真琴の業績は知らなかったが、福岡支社長になって管内の地方紙の挨拶回りで宮崎日日新聞社の社長だった宮永真弓氏に初めて会った。一夜の歓談ですっかり真弓氏の魅力に取り憑かれた。
地方紙の社長というよりも「二千年の花」「つゆ草秘抄」「海から聞こえる笛」「幻現の時計」「散花散文」などを著した文人として有名であった。和泉式部という王朝文学とくに”つゆ草”にまつわる話を地酒を酌み交わしながら聞かせてくれた。つゆ草への思慕故に自分の住所を「宮崎市花散る里」と勝手につけたが、それで郵便物が届く怪物。
白内障を患い、手術で視力を取り戻した時に、初めて目にした花が、慶応病院の庭に咲くつゆ草だったという。この花を追い求め、古墳の中で二千年の眠りから蘇ったつゆ草を「二千年の花」と命名した。洒落心がある。それから真弓氏は、つゆ草のエッセイや和歌を書き始めた。
紫式部は王朝才女だと真弓氏はいう。「つゆ草のような女」だと惚れた。エッセイ集「二千年の花」を出した時には、間もなく真弓氏は七十歳になろうとしていた。歌人としては宮中歌会始の傍聴者となるなど著名だったが、エッセイストとしては遅咲き。それが作家・水上勉の目にとまり、わざわざ花散る里を訪れて一夜の歓談となった。
「つゆ草はいかがですか」と水上氏。
「まだ芽は出ていませんが、いやもうはびこるにまかせて・・・。わが庵は夏は草のなかですわ」と哄笑した真弓氏。
      たましひは焔となりて狂ひ咲く火葬り式部の紅蓮を見たり 真弓
紫式部の終焉の地は日向(宮崎県)だったという。八十歳の時に出した「幻現の時計」では和泉式部と与謝野晶子のつゆ草を歌った和歌が紹介されてある。
      露草に染む衣のいかなれば現し心もなくなしつらむ  和泉式部
      そよ理想おもひにうすき身なればか露草人ねたかりし 晶子
二年後の八十二歳で「散花散文」を出したのが五月。暮れも押し迫った十二月二十九日に入院先の県立宮崎病院で胆管ガンで亡くなった。享年八十三歳。「キミ、新聞は軟派できまるんだよ。文弱の徒に栄光あれ、だ」が口ぐせ。毎月のように博多の支社長室に「文学支社長!宮崎に遊びにこないか」と大きな声で電話が掛かってきた。それを心待ちしていた私は、いそいそとして宮崎空港に向かったものである。
<紫式部 (小倉百人一首より)紫式部(むらさきしきぶ、天延元年(979年)頃? – 長和五年(1016年)頃?)は、平安時代中期の女性作家、歌人。源氏物語の作者として有名である。本名不詳。
中古三十六歌仙の一人。『小倉百人一首』にも「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」で入選。生没年については諸説ある。藤原北家の出で、女房名は「藤式部」。「紫」の称は『源氏物語』の作中人物「紫の上」に、「式部」は父が式部大丞だったことに由来する。実名は不明だが、香子(たかこ・こうし)とする説もある(角田文衞博士が著書『平安の春』で提唱)。後に、未公開の作品には、蝶陽という名を残していることも知られている。そこから推測できることは、改名したかったというひそかな意思である。
略伝
越後守藤原為時の娘で、母は摂津守藤原為信女。幼くして母を失ったらしい。同母の兄弟に惟規がいるほか、姉の存在も知られる。三条右大臣定方、堤中納言兼輔はともに父方の曽祖父で、一族には文辞を以って聞こえた人が多い。
幼少の頃より、当時の女性に求められる以上の才能で漢文を読みこなしたなど、才女としての逸話が多い。五十四巻にわたる大作『源氏物語』、宮仕え中の日記『紫日記』を著したというのが通説、家集『紫式部集』が伝えられる。
父藤原為時は30代に東宮の読書役を始めとして、東宮が花山天皇になると蔵人、式部大丞になるも花山天皇が出家すると失職し10年後、一条天皇に詩を奉じた結果、越前国の受領となる。紫式部は娘時代の約2年を父の任国で過ごす。長徳四年(998年)頃、親子ほども年の差がある山城守藤原宣孝と結婚し、長保元年(999年)に一女・藤原賢子(かたいこ・けんし)(大貳三位)をもうけたが、この結婚生活は長く続かず、まもなく宣孝と死別した。寛弘二年(1005年)12月29日より、一条天皇の中宮・彰子(藤原道長の長女、のち院号宣下して上東門院)に女房兼家庭教師役として仕え、少なくとも同八年頃まで奉仕し続けたようである。
『詞花集』に収められた伊勢大輔の「いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな」という和歌は、宮廷に献上された八重桜を受け取り、中宮に奉る際に詠まれたものだが、『伊勢大輔集』によればこの役目は当初紫式部の役目だったものを式部が新参の大輔に譲ったものだった。
彼女の記録における最後の登場は、藤原実資の日記『小右記』長和2年5月25日条で、「越後守為時女」として皇太后彰子と実資の取り次ぎ役を務めた。よって三条天皇の長和年間(1012年-1016年)に没したとするのが通説だが、異見もある。
人物評
同時期の有名だった女房たちの人物評があり、そこから『枕草子』の著者、清少納言にライバル意識を燃やしたことが知られるが、実際は面識はない。同輩であった女流歌人の和泉式部や赤染衛門には好感を見せている。
日本紀の御局
『源氏の物語』を女房に読ませて聞いた一条天皇が作者を褒めて、きっと日本紀(日本紀は『続日本紀』によれば『日本書紀』のことであるので『日本書紀』をさすという説がある)をよく読みこんでいる人に違いないと言ったことから、「日本紀の御局」とあだ名されたとの逸話があるが、これには女性が漢文を読むことへの揶揄があり、本人には苦痛だったようであるとする説が通説である。
「内裏の上の源氏の物語人に読ませたまひつつ聞こしめしけるに この人は日本紀をこそよみたまへけれまことに才あるべし とのたまはせけるをふと推しはかりに いみじうなむさえかある と殿上人などに言ひ散らして日本紀の御局ぞつけたりけるいとをかしくぞはべるものなりけり」
道長妾
紫日記及び紫日記に一部記述が共通の『榮華物語』には又、夜半に道長が彼女の局をたずねて来る一節があり、鎌倉時代の公家系譜の集大成である『尊卑分脉』(『新編纂図本朝尊卑分脉系譜雑類要集』)になると、「上東門院女房 歌人 紫式部是也 源氏物語作者 或本雅正女云々 為時妹也云々 御堂関白道長妾」と紫式部の項にはっきり道長妾との註記が付くようになるが、彼女と道長の関係は不明である。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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