309 あね泣かずおとうと泣きおり 古沢襄

和歌が取り持つ縁がある。歌人・宮永真弓さんの想い出を書きながら、北陸歌人の深山栄さんのことも書きたいと思い立った。布袋様の様に丸顔の深山氏を知ったのは三十九歳で富山支局長になった時であった。
当時の深山氏は北日本新聞の編集局長。後に同社の社長になった人だが、北陸歌壇で名を馳せている。中央歌壇で著名だった宮永さんの様な派手さはなかったが、地方では一家を為した。富山大空襲を歌った和歌に次の一句がある。
     あね泣かずおとうと泣きおり戦災のちちをしのびて寺のひえゆく 栄
六十歳で歌集「空襲三十五年」を出して、七年後に「敦煌微笑」、さらに四年後に「落椿のうた」。続いて四年後に「山河慟哭」を出した時には七十五歳になっていた。北アルプス立山を愛した人でいくつかの優れた作品を遺している。
     灰燼に帰したる街の底透けてひときわ高しけさの立山 栄
     新緑の高原の上の棚雲のその上に峨峨たり雪の立山 栄
     峠路の笹のあいだゆ見はるかす薬師は嶺よりひろがりにけり 栄
深山氏は肺炎のために八十六歳で亡くなったが、その晩年まで私との交友が続いた。律儀な人であった。晩年の筆跡は、かなり乱れをみせているが、かならず返書をいただいている。私が労務担当の役員になった時に頂戴した手紙に次の二句があった。
     しらじらと明けそむ団交のまどのそとたてやまつるぎが稜線あらわす 栄
     だんこうの収拾ならずかえり路のこころすがれてあおぐ新月 栄
「和歌が取り持つ縁」は別の話になる。宮永さんが亡くなった一年後に「追想 宮永真弓」という本が出た。そこに女流作家・辺見じゅんさんと仲良く座敷で歓談するカラー写真が掲載されてある。
辺見じゅんが新田次郎文学賞『男たちの大和』や講談社ノンフィクション賞『収容所から来た遺書』の受賞作家であることは知っていたが、迂闊にも歌人・辺見じゅんを知らなかった。『雪の座』『闇の祝祭』(88年現代短歌女流賞)などの歌集を出していることは後で知った。
辺見じゅんは角川書店の創設者・角川源義氏の長女、春樹・歴彦兄弟の姉さんに当たる。源義氏と宮永氏は旧友だった。源義氏が亡くなって宮永氏は辺見じゅんを青山の小料理店に招き、初めて会っているが、自分が娘を亡くした話をしたという。源義氏に代わって親代わりになる心づもりがあったのではないか。
源義氏は富山県人。辺見じゅんは昭和二十年八月二日の富山大空襲を経験している。「月光がさえわたる空が一転、夕焼け色に染まった」「防空壕から見上げると、まるで巨大な仕掛け花火が打ち上げられたよう」と回想しているが、六歳だったから深山氏のような挫折感はない。
だが、この実体験が成長するにつれて辺見じゅんの創作態度の基調になったのではないか。「戦争が時代の象徴だったことに、気が付かなかった。戦争や、父母の生きてきた時代を直視することがなかったから・・・」「戦争を知らないことは恥ずかしいことだった。少しでも知っているのに、なぜそれと向き合わなかったのか。戦争を知ろうと努力することが大切だった」と言っている。
やがて「戦地からの帰還者や遺族を通し、その話を聞き重ねるにつれて、死者たちの言葉を紡ぎたいという思いが強くなった」・・・。一人の真摯な女流作家の誕生である。父が生きた富山県に足繁く通い、そこで深山栄という新聞人と会う。
深山氏と角川源義氏は同郷の同年輩。お互いに文学青年で交友がある。この縁であろう。北日本新聞社を訪れた辺見じゅんは歌集「敦煌微笑」の出版を深山氏に勧めていた。躊躇していた深山氏の後押しをしたのが、辺見じゅんであった。宮永真弓、深山栄という歌人と辺見じゅんが綾なす縁の不思議さを思わざるを得ない。

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