330 戦後保守政治の証人・辻トシ子女史 古沢襄

辻トシ子さんが米寿を迎えた。その「米寿を越えた喜びの会」が来年の二月五日にホテルオークラの平安の間で開かれるという招待状を頂戴した。体調を崩して回復したものの長時間のパーテイとなると自信が持てないので、次女・知子(武蔵野ワークス代表)に付き添って貰って出席するつもりでいる。
世話人代表は宮沢喜一元総理。世話人には世界の王貞治、村山富市元総理、綿貫民輔国民新党代表、YKKの加藤紘一元幹事長、平松守彦大分県前知事、中沖豊富山県前知事、藤井裕久民主党前代表代行と超党派、各界の名士がズラリと並んでいる。世話人ではないが、前回は小沢民主党代表や羽田孜元総理も顔を出している。あの広い平安の間が一〇〇〇人を超える人たちで立錐の余地もなくなるであろう。
思えば辻トシ子さんには、政治記者になって以来、半世紀近くお世話になった。二十八歳の時に総理官邸の副総理室で初めてお会いしたのだが、三十九歳の辻トシ子さんは美貌と才気で輝いていた。昨年にもお会いしたが、当時の印象のままであった。数年前に「二冊のメモワール」という記事を私は書いたが、それを再掲する。
十年も昔の話になるが、ホテル・オークラで盛大なパーテイがあったので、労務担当役員だった私は、団体交渉の合間をみて顔を出した。「平安の間」が立錐の余地もないくらいの人で埋まり、各界の名士たちが集まっていた。政財界の大物に混じって、女優の藤村志保さん、読売ジャインツの王貞治さん、写真家の秋山庄太郎さんなど華やかな雰囲気に満ちたパーテイだった。

パーテイの主役は辻トシ子さん。集まった人たちは「自分が辻門下の一番弟子」を自称していた。古希を迎えたというのに年齢を感じさせない美貌と艶やかさで、「この道」と「あざみの歌」を二曲、美声で立て続けに歌い、会場の聴衆をうならせた。
あれから十年。昨年秋に同じホテル・オークラで、このパーテイがあったが、古希を迎えた私はパーテイに参加しなかった。茨城県に引きこもった私のところに辻さんからパーテイ風景のビデオと「私のメモワール」写真集が、間もなく送ってきた。そんな優しさが辻さんにはある。
「さとろーかい」秘話
十年前のパーテイで「私のメモワール」を辻さんは出している。だから今度の写真集は「私のメモワール Ⅱ」となっていた。「Ⅱ」のメモワールには「三十六会・思い出の40年」の副題がついていた。
「三十六会」は「さとろーかい」と読む。六十年安保の翌年、1961年秋に独立した辻トシ子さんが、赤坂・虎ノ門のアメリカ大使館前のビルに個人事務所を持ったが、辻応援団の集まりが、この会といえる。
私が辻さんの知己を得たのは、この二年前。岸内閣の末期で、政治部の駆け出し記者として首相官邸に詰めた時である。官邸長は旧制第一高等学校出の福田亮太さんという口八丁手八丁の名物男だったが、ある日のこと「副総理室に日本で初めて女性の大臣秘書官になった美人がいるから拝んでこい」とニヤニヤしながら命じられた。
福田官邸長は、もう一つのことを私に指示してくれた。「いいか、美人秘書官に名刺を出して、挨拶したらサッと帰ってくるのだぞ。副総理には会わないの!と言われたら、いいんです、と言えばよい」・・・何とも理解し難い指示だったが、西も東も分からない駆け出し記者の身であったから、薄暗い首相官邸の廊下をつたわって副総理室のドアを叩いた。
話半分に福田官邸長の珍妙な指示を聞いていたのだが、辻さんに会ってみると美貌もさることながら、頭の回転の早さに圧倒される思いが先に立った。東京生まれの東京育ちの私は、機敏な頭の回転の早さでは誰にも負けない自信があったのだが、受け答えがシドロモドロになってしまって我ながら情けない挨拶になった。
貰った名刺には「副総理秘書官 辻トシ子」とあった。「辻トシ子って何者なのですか」と福田官邸長に尋ねると「辻嘉六の愛娘だよ。お前は何も知らないな」と呆れ顔で言われてしまった。だから「辻嘉六って何者なのですか」と聞くことが憚られた。戦前、戦後を通して保守政界の黒幕として君臨し、戦前は日本に亡命してきた中国の孫文を支援して、戦後は日本自由党の創立、保守合同の陰の立て役者だった辻嘉六のことを知ったのは、後のことになる。
開口一番「ああタヌキね」
日ならずして副総理室を尋ねたら、開口一番「ああタヌキね」と辻さんからショッキングな言葉を投げられて、またシドロモドロな面会になってしまった。憤然として福田官邸長に報告すると「お前は合格だよ。辻情報は確度が高いから日参しろよ」と今度はニコニコ顔でねぎらって貰った。
それ以来、辻さんから私の姓で呼ばれたことはない。いつもタヌキである。四十年を超える辻さんとの付き合いで、数多くの政治記者が辻さんの周辺に集まったが、あだ名で呼ばれる政治記者はあまり多くない。「ドジョウ」とか「ゲタ」のあだ名の政治記者が、今もって辻さんとの交友が続いている。
政界情報は各社の夜討ち朝駆け取材によって、毎日、洪水のように種々雑多な情報が流れるが、その真偽の判断がマスコミにとっては重要な作業となる。六十年安保から七十年安保にかけての疾風怒濤の時代を国会取材で明け暮れた私にとって、情報の真偽の判断を下すうえで辻さんの存在は大きかった。
二冊のメモワールを見ると吉田自由党に始まり、池田内閣、佐藤内閣、田中内閣、宮沢内閣という保守政治の時代に辻さんが政権の中枢近くに存在していたことが分かる。だから辻情報の確度が高かったのであろう。
ワンマン宰相を困らせた辻インタビュー
メモワールにワンマン宰相の名をほしいままにした吉田元首相との対談が出ているが、人の好き嫌いがはっきりしていて政敵も多かった吉田さんが「私は昔から他人の好き嫌いは、絶対にないんですよ」ときれい事を言った一節が出ている。それに辻さんは「それは信じられません。昔から好き嫌いが激しいので有名ではなかったのでしょうか」と果敢に斬り込んでみせた。才気溢れた美女の逆襲に吉田さんは「・・・・・・」。
葉巻をくわえた吉田さんが、目を白黒させた情景が浮かんでくる。大磯の私邸の自室から庭を眺める吉田さんのポートレートには「辻女史恵存 吉田茂」の自筆署名がついていた。
吉田自由党の中枢を握ったのは、林譲治、大野伴睦、益谷秀二の「ご三家」だった。益谷さんは若い頃、辻嘉六の書生だった。その縁で国会議員なると辻さんを秘書に迎え、二人三脚が始まった。いかにご三家の一人とはいえ益谷さんの秘書というだけでは、吉田さんも辻さんに破格の扱いをしなかったであろう。父親譲りの政治的な天分といったものを若き辻さんから見てとったのだろうと思う。
だから吉田学校の優等生だった佐藤栄作、池田勇人も辻さんを大切に扱っている。「三十六会」が出来たいきさつも面白い。池田内閣で益谷さんは自民党幹事長に就任した。その時の自民党経理局長が宮沢喜一さん。辻さんがお供をして三人で夜の食事に出ることが多くなった。その席上で酔っぱらった益谷さんが辻さんに絡んで、二人は喧嘩になった。口惜しがった辻さんは泣き出したという。
「この綺麗な人が泣き出して・・・」と宮沢さんは困ったらしい。いつの時代も女性の涙ほど強いものはない。「もう益谷先生にこれだけ尽くされて、そろそろ自分で事務所を持ちなさい」という宮沢さんの勧めがあって、辻事務所・「三十六会」が生まれた。そうなると産みの親は宮沢さんということになる。
話は変わるが、辻嘉六のことは知られざる部分が多い。政界の黒幕に徹したために秘話は語らず、墓場に持っていったためである。東京・永福の築地本願寺和田堀廟所に墓があるが、墓碑銘の表書きは鳩山一郎の義兄で政友会総裁だった鈴木喜三郎、裏書きは鳩山一郎。亡くなった時には借財だけが残された。典型的な井戸塀政治家で、辻さんが貰った形見分けは一枚のペルシャ絨毯と紫檀の茶箪笥。それも売って、その場を凌ぐことに使われた。
宮沢さんは「辻嘉六は親分肌で、人の世話ばかりして一生を終えた」と回顧するが、辻トシ子さんもその血筋を受けている、という。散じる性格は父と娘に共通するものがあるが、口が固いことも似ている。戦後政治の隠れた裏面史を知る貴重な「証言」を辻さんが持っていることは間違いないと思うのだが、それを引き出すことは至難の技なのかもしれない。
四〇年を超える付き合いで裏面史の断片は、それなりに掴んだつもりでいたが、いざ繋ぎ合わせると一本の糸にならない。肝心なことは「黙して語らず」を辻さんは貫いている。裏面史の証人が口を開くことがあるのだろうか。

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