332 国賊・逆臣の末裔なのか? 古沢襄

私は戦前の”国賊”とよくよく縁がある家系に生まれたようだ。父が生まれ育った岩手県は、明治維新で最後の賊軍として戦った盛岡藩。藩の筆頭家老だった楢山佐渡は、朝敵の汚名を背負って、反逆首謀の名を着せられて切腹して果てた。
ジャーナリスト出身から最初に宰相となった原敬は”平民宰相”といわれたが、盛岡藩士の原直治の次男。祖父・直記は家老職にあったほどの上級士族の家柄であった。二十歳で分家して平民籍に編入された。だが盛岡藩士族の誇りを生涯忘れていない。1917年に政友会総裁として盛岡市内の報恩寺で「戊辰戦争殉難者五十年祭」に出て、「戊辰戦争は政見の異同のみ」という祭文を読んで楢山佐渡の汚名をそそいだ。
夫人のあさ子は盛岡の芸妓だったが、まれにみる賢夫人だったという。原敬はあさ子に首ったけで風呂にはいつも一緒に入ったが、原敬が東京駅で暗殺された時には、とり乱さずロンドンに留学中の嗣子貢に「チチ トウキョウエキニテ アンサツセラル キコクニオヨバズ ベンキョウセヨ アサコ」と電報を打った。
これは余談。古沢家の家系とは関係がない。岩手県西和賀で三百年の歴史を刻んだ古沢家のことは、ほぼ解明したのだが、西和賀に移住する前の歴史の解明には、ほぼ十年の歳月がかかった。それもまだ完璧に解明できたとは言い難い。
概略的にいえば、常陸国(茨城県)の鬼怒川西岸に赤松氏という土豪がいた。東岸の下妻城にあった多賀谷氏に服属して、後北条氏の下妻侵攻で武功を立てて下妻庄・古沢郷を拝領して、姓を赤松から古沢に改めている。一族の多くは多賀谷氏の没落後、土着して農民に戻ったが、佐竹氏が秋田に転封された時に従って能代城に赴いた者もいる。
佐竹義宣の弟の宣家が多賀谷家に七歳で養子入りし、多賀谷の娘と政略結婚を結んだのだが、宣家配下の古沢一族(分家筋)が秋田に赴いていた。多賀谷宣家は僅か四十数人の多賀谷家臣を従えて佐竹家に帰参したという。佐竹文書に古沢助蒸なる名がでている。しかし一代かぎりで古沢姓は能代から消えている。おそらく禄を離れて土着したのであろう。
そして西和賀の隣村である雫石邑に古沢理右衛門なる寺子屋の師匠が突然姿を現した。その理右衛門も一代かぎり、現在の雫石町には古沢姓はない。理右衛門の墓は町内の曹洞宗・広養寺に現存している。能代の古沢助蒸の墓はまだ発見できないでいる。
したがって西和賀→雫石→能代→下妻というルートは想定できたのだが、その裏付けが乏しいうらみが残った。ところが意外なことに西和賀・古沢氏と下妻・古沢氏を結びつける墓石と家紋が一足飛びに発見された。家紋は「蔦」、これは赤松家や下妻・古沢家の江戸時代の分家家紋であった。
ここまでは国賊のコの字もでてこない。問題は改姓前の赤松姓にあった。鬼怒川西岸の八千代町川尻に赤松家の墓所がある。また八千代町教育委員会所蔵「不動院縁起」に川尻・赤松氏の由来が記されていた。
その祖は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて播磨国(兵庫県)の守護大名として活躍した赤松則村(円心)となっている。また川尻・赤松氏は、赤松則村を曾祖父とする赤松祐弁が開祖。さらに赤松則村は村上天皇の第七皇子・具平親王を遠祖とする武士で、元弘の変で鎌倉幕府打倒で軍功をあげたとしてある。
具平親王といえば聞こえがいいが、実際には六代後の季房が関係している。季房は出来の悪い人物で、播磨国に配流となっていた。東大史料編纂所の高坂好氏「赤松円心・満祐」(昭和四十五年 吉川弘文館)で次の様に解明している。
季房は丹波守、加賀守を歴任後、天永二年の暮に播磨国に配流となった。しかし都から配流された貴公子に豪族は娘を配して、その血統を高めようとした例は多い。季房の血をうけた子が、やがて佐用郡の名門として田舎武士の棟梁と仰がれるようになったのであろう。
赤松則村が後醍醐天皇の挙兵に応じて六波羅に攻め込み、討幕の功績をあげたのは、村上天皇の末裔意識があったのだろうが、後醍醐天皇による建武中興が公家中心の復古政治になったことにすぐ反撥している。足利尊氏に味方し、室町幕府のもとでは侍所の所司に任じられる四職の一家となって、播磨国の守護大名となった。
戦前は足利尊氏とともに赤松則村は「逆臣・国賊」として扱われ、戦後になって復権、足利尊氏の再評価と並んで赤松則村の研究が中世の歴史学徒によって広く発掘されるようになった。古記録として「嘉吉之記」(東大史料編纂所蔵)、「赤松家 嘉吉乱記」(名古屋市鶴舞中央図書館蔵)、「赤松之伝」(無窮会専門図書館蔵)、「普光院軍記」(英賀神社蔵)、「赤松盛衰記」(龍野市歴史文化資料館蔵)などが現代語で訳されている。
足利尊氏と赤松則村の「逆臣イメージ」は南朝史観に拠った「太平記」に依拠する点が大きいが、近来、北朝・室町幕府寄りの「梅松論」「源威集」の研究が進み、史実としては「梅松論」の方が正確であることが確かめられている。
その後、嘉吉の乱(1441)で赤松則村の末孫・赤松満祐が六代足利将軍の義教と対立、京都の赤松邸に義教を招いた宴席で暗殺する挙に出た。嘉吉元年六月二十四日のことである。足利将軍を暗殺した後、赤松満祐は一族を率いて京都を脱出し、領国の播磨国に落ち延び、坂本城で幕府の追討軍と戦うが落城、さらに城山城で幕府軍と一戦を交えるが敗北して赤松満祐は自害して果てた。これが赤松氏の逆臣イメージを増幅させたことは言うまでもない。
一族の多くは討たれ、室町幕府の守護大名として権勢をふるった播州・赤松氏は滅亡した。川尻・赤松氏は、全国に逃亡した赤松氏の一支族なのであろう。ただ播州・赤松氏と川尻・赤松氏を結びつける文献、家系図などは発見されていない。僅かに八千代町教育委員会所蔵「不動院縁起」に川尻・赤松氏の由来が記されているだけである。勘ぐれば土豪に過ぎない赤松祐弁が、家門の名を高めるための自作自演だったのではないかという疑いが残る。この伝承に奮起した古沢一族が、多賀谷武将の中で猛将を輩出して頭角を現した事実を認めるのは吝かでないのだが・・・。

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