348 ホラムズ王国の繁栄はいずこに 古沢襄

古代トルコ民族の足跡を追ったことがある私にとってトルクメニスタンは気になる国のひとつ。正式名称はトルクメン語で、Turkmenistan。「トルコ人の土地」を意味するという。漢代地図をみると安息国(中国名=パルティア・PARTHIA)と大夏国(中国名=バクトリア・BACTRIA)がある。この安息国が古代のトルクメニスタン、欧米の歴史家はパルティアと呼ぶ。パルティア以前の遺跡も発掘されている。
日本にとってトルクメニスタンは遠い国であったが、その豊富な天然ガス、原油が近年注目を浴びて、首都アシハバードに大使館を開設、当時の逢沢一郎外務副大臣が初めてトルクメニスタンを訪問している。民間では伊藤忠、三井、三菱などが現地事務所を開設していて両国関係はいい。
私の旧友で通産省から日揮株式会社の専務になった堺司氏(故人)がいるが、高校時代の同級生四人で毎月のようにゴルフを楽しんだ。その時にトルクメニスタン向けの大型プロジェクトの受注話を聞いて興味を持った。大型プロジェクトのことよりは、古代トルコ民族の歴史の方に私の関心があったのだが・・・。
この大型プロジェクトは一九九八年に日揮、伊藤忠、日商岩井、丸紅化学プラントが、トルクメニスタンの国営石油ガス公社との間で契約を結んでいる。ポリプロピレンプラント、ユーティリティおよび 海水淡水化装置を含むインフラ設備を新設する大型プロジェクトで、日本がトルクメニスタン向けに輸出する過去最大のものとなった。
建設場所は首都アシハバードの西方約500kmのカスピ海に面した港町・トルクメンバシ。納期が二〇〇一年だったからすでに完工して稼働している筈。対日感情が良いから、ビザ発給が困難な面があるものの日本から旅行者が結構入っている。ただ写真撮影には厳しい制限がつく。亜熱帯性砂漠気候の土地なので、猛烈な暑さに悩まされる。
トルクメニスタンの歴史に戻ろう。安息国の発祥地はニサ遺跡。紀元前3世紀~紀元後3世紀にかけて営まれたパルティアの初期の首都で城壁に囲われていた。この遺跡から有名な「ニサのヴィーナス」が出土している。現物写真をみたことがあるが、砂漠国家の安息国にギリシャ文明が伝わっていたことに感動した。日本が縄文時代の闇の中にあった時のことである。

アレクサンダー大王のペルシャ遠征は有名な歴史だが、アレクサンダーの死後、その版図はエジプト(プトレマイオス家)、シリア(セレウコス家)、マケドニア(アンチゴノス家)に分裂している。アレクサンダーの遠征によって、多くのギリシャ人が東方に移住した結果、ギリシャ文明とオリエント文明が融合した独自の文明・ヘレニズム世界が生まれている。
分裂したシリア王国から、さらに独立した東方世界が安息国と大夏国。いまでこそトルクメニスタンは国土の70%をカラクム砂漠に覆われ、人口466万の小国だが、かつては族長アルサケスの下に剽悍な騎馬民族が砂漠を越えて大夏国に攻め込んで版図を拡大し、セレウコス朝シリアと戦っては東の首都セレウキアを攻略している。
さらにはメソポタミアへ侵攻してシリア勢を駆逐し、最古のキリスト教国アルメニアに進駐、王を服属させた。この結果、西はユーフラテス川、東はインダス川に至る広大な領土を形成して、ローマと中国を結ぶ東西貿易の中継地として繁栄した。
ローマ帝国の出現によって、カルラエの戦いでローマ軍のクラッスス将軍(Marcus Licinius Crassus)を迎え撃ち、ハランで戦死させて撃退、一時講和に持ち込んだ。しかし度重なるローマ軍の侵攻によって安息国は滅亡している。
元代地図をみるとトルクメニスタンは伊児汗(イル・カン)国の版図に含まれている。
ジンギス汗は大帝国を樹立したが、その過程で自ら二〇万の大軍を率いて中央アジアのホラムズ王国を攻める”大西征”を行っている。一二一九年から一二二五年にかけて七年間にわたった攻略戦で、侵略した国はトルクメニスタン、カザフスタン、ウズベキスタン、アフガニスタン、パキスタン、イラン全域に及んだ。
カスピ海東方の広大な版図を占めていたホラムズ王国は、シルクロードの要衝にあって東西交易の商業利益を得て豊かな国家であった。南方に5000メートル級のサライ山脈があって、雪解け水が流れ込み、オアシス地帯の食物にも恵まれている。そこに点在する都市は城壁を築いて、砂漠地帯は天然の防衛線でもあった。
アムダリア河の下流にヒヴァというオアシスの街があった。外敵の侵入を防ぐために二重の城壁に囲まれていて、現在は世界遺産に指定されている。一歩城郭を出れば、熱砂の不毛な砂漠が広がっているが、オアシスの城郭内は別天地。ホラムズ王国はオアシスの都市によって栄えた商人国家といえる。
ホラムズ王国に襲いかかったモンゴル軽騎兵は軽装備で機動力に優れている。猛烈なスピードでホラムズ王国の騎馬軍団を蹴散らし、城郭都市を囲んでいる。すでにモンゴル軍は攻城術が完成していた。投石機、やぐら、火炎弾などの攻撃兵器を駆使して難なくホラムズ王国の諸都市を攻略している。ホレズム王国の首都として栄えたクフナ・ウルゲンチは、グルガンジの名で知られた古代ホラムズの都だったが、一二二〇年に包囲されて翌年に陥落、都市はモンゴル軍によって破壊された。
ウルゲンチは廃墟となり、砂漠の中に取り残された遺跡として残っている。モンゴル軍は機動力に優れていたが、足てまいといになる捕虜を残さないで前進している。ヘラートの街では一六〇万人の市民が殺戮されたという。
トルクメニスタンの民族構成はトルクメン人72%、ロシア人9・5%、ウズベク人9%などとなっているが、思い過ごしかもしれないが、亡くなった独裁者・ニヤゾフ大統領の風貌からは、ずんぐりとしたモンゴル系の感じを受けた。
同じトルコ系でもバイカル湖周辺で接したブリヤート人とは違う。トルクメン人の多くはモンゴル騎兵の末裔なのだろうか。

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