ミッチーの長男・渡辺喜美氏が当選四回で大臣のポストを射止めた。父親の美智雄氏が初の大臣になったのは当選五回の時、それでも周囲から早過ぎるとやっかまれている。福田内閣の初組閣人事の時。
その話をミッチーがしてくれたことがある。組閣本部に呼び込まれて福田首相から「厚生大臣」と言われた。首相の両脇には大平幹事長、園田官房長官、政調会長や総務会長が控えていた。厚生省がどこにあるのか知らないと「できません。それは困ります」と一度は断った。
ミッチーがグズグズ言うので園田官房長官が「いいかげんにしろ」と怒った。河野一郎の応援でミッチーが初当選し、当然のことながら河野派に入った時には、園田はすでに河野派の大幹部。一年生議員と大幹部では、月とスッポンほどの違いがある。
その河野は昭和四〇年夏に急死した。佐藤内閣の初期。河野の跡目をめぐって代貸しの重政誠之氏と中曽根康弘氏の争いになった。ミッチーら一年生議員は中曽根支持、その先頭を切って騒いだのがミッチーであった。
大幹部の森清、松田竹千代、園田直、白浜仁吉らは重政支持で分裂している。重政は佐藤栄作とも福田赳夫とも良かった。その縁で人材が育っていない福田派の大幹部に園田が迎えられている。
このいきさつがあるから、園田の一喝にミッチーはカチンときた。酒が入っていたから「農林大臣なら引き受けるが、厚生大臣はご免こうむる」とタンカを切って帰ろうとしたら、大平が「総理がせっかく言うのだから、気持ちよーく引き受けたらどうかね」と半分寝むった様な声で、ミッチーをたしなめたという。
結局は意に染まない厚生大臣を引き受けて、医師優遇税制の見直しで、日本医師会のドン・武見太郎氏と渡り合った。大蔵省出身者が多い官僚派閥・大平派を率いた大平からすれば、ミッチーの様な破天荒な暴れ者で、そのくせどこか底抜けに明るいキャラクターは珍しかったのであろう。おまけに二人は東京商大(一橋大学)で先輩後輩の関係がある。
大平に可愛がれたミッチーだったが、福田とは相性が良くない。だが安倍晋太郎とは仲がいい。大平内閣ができるとミッチーは農林水産大臣に登用された。米の銘柄格差の導入という画期的な政策を持ち前の”突破力”で突進している。佐田行革担当相が政治資金収支報告書に不適切な処理があったとして辞任、後任に選ばれた渡辺喜美氏が安倍首相から”突破力”を期待されているのは因縁めく。
平成二年に渡辺派が旗揚げしたが、山崎拓、伊吹文明、武部勤、島村宣伸がいる。初めて総理・総裁の座を意識したのではないか。ミッチーはまず安倍晋太郎政権を作り、晋太郎から禅譲を受けるという政権戦略を描いている。晋太郎が総理・総裁の座を目前にして急逝したことは、ミッチーの政権戦略に影響を与えた。
学生時代に同じ下宿で毎晩飲み歩いた仲間がミッチーの従弟であった。高木幸雄氏(旧姓渡辺・故人)といった。その縁でミッチーの兄・嚆夫氏とも親しくなり、皆で奄美諸島を一回りする旅行もしたことがある。
それだけに総理・総裁の座を掴むことなく、この世を去ったミッチーを惜しむ気持ちが強い。ミッチーを見慣れてきたせいか、一年生議員の渡辺喜美氏には何となく頼りない感じを受けていたが、最近、故高木幸雄氏の顕彰碑の除幕式で会ったら、若き日のミッチーそっくりになってきたと一族の人たちが言っていた。そうなのだろう。息子の時代の新しいページが開かれようとしている。
354 息子の時代の新しいページ 古沢襄

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