361 妻に先を越されたアナトリア旅行 古沢襄

古代トルコ民族に関心を持ったのは、二度にわたるシベリア旅行で、バイカル湖周辺に住むブリヤート人が、あまりにも日本人と似ていたからだ。多分、南のモンゴル高原に住む蒙古人と同種族だと思った。
だが目が細く、ズングリ・ムックリの蒙古人とはちょっと違う。最初のシベリア旅行で私たちの案内役をしてくれたイルクーツク大学の女子学生は、涼やかな大きな目をしていた。背も高く、飛びっきりの美人であった。肌の色は同じ黄色人種。
最初は蒙古人と白系ロシア人の混血児だと思った。白系ロシア人の故地はスカンジナビア半島だという説がある。スウェーデンが生んだ20世紀の大女優・イングリッド・バーグマンは学生時代の憧れの女優であった。映画「カサブランカ」などは何度も観ている。
ウクライナ人はキエフ大公国こそがルーシ(ロシアの古称)の故郷だという意識を持っている。キエフ大公国は9世紀頃、スカンジナビア半島から南下した北欧人と先住民族であるスラブ人が作った国家だという。
だが、その北欧人の末裔がシベリアにきたとは思えない。帰国して調べてみたらブリヤート人は古代トルコ民族とモンゴル民族の混血種だと分かった。しかし地中海に面して東西文化の結節点だったトルコ人が、どういうルートでシベリアのバイカル湖まできたのであろうか。疑問は尽きなかった。
東大名誉教授でトルコのイスタンブル大学の客員教授でもあった護雅夫氏は「古代トルコ民族史研究」三巻の大著を残している。一般的には同氏の中公新書「古代遊牧帝国」が入門書として良いのかもしれない。
多少なりとも東洋史学を専攻した私は専門書の「古代トルコ民族史研究」を読むことができた。第一巻が古代トルコ民族の発祥について様々な角度から推定・研究をしている。その結果、護教授は中国の文献にある「突厥」帝国がトルコ人の先祖としている。
突厥(とっけつ)は西暦552年に建国、その版図はモンゴル高原からソグディアナまで支配した大帝国。支配氏族は「阿史那(アシナ)」といった。この552年は現代のトルコ共和国も、その建国の起源をとしている。
大阪外語大学の蒙古語学科を卒業した作家の司馬遼太郎は、ブリヤート人を低地モンゴル人、蒙古人を高地モンゴル人と規定した。高地モンゴル人は”水”を忌むべきものと嫌う。遊牧生活の中で腐敗した溜まり水を飲んで、人や羊が横死した経験が、そうした風習を生んだのかもしれない。
バイカル湖周辺に定住したブリヤート人は水を怖れない低地モンゴル人。蒙古人のような移動式の天幕・パオを持たない。パオの形をしているが、木の皮と土で固めた屋根がある固定住居を持っている。中は広くて暖かい。長い歴史の中で異種とも思えるブリヤート人が生まれた。ブリヤート人は”ブリヤート・モンゴル”と言われるのを嫌う。
美貌の女子学生に「日本人そっくりだ」と言ったら「日本の富山大学に留学していた」と流暢な日本語で答えた。意地悪く「モンゴル語が喋れるか」と聞いたら「喋れない」とニベもない。「ジンギス汗は非道な征服者」と付け加える。
古代の中国史書にバイカル湖周辺に「高車・丁零」という古代トルコ系の国家があったという記述がある。文字通り「高輪の車を使用する丁零族」。丁零は「テイレイ(テュルク)→トルコ」の漢字表記である。この高車丁零が後の鉄勒(テツロク)という強大な国家となり、やがて突厥(トッケツ)大帝国が誕生した。(地図は漢代の丁零)

だから、いずれの漢字表記も「テイレイ→テツロク→トッケツ(テュルク)→トルコ」の音読みからきたと私は思っている。ゴロ合わせの様で多少は気がひけるのだが・・・。ジンギス汗が現れる(十二世紀)前の北アジアは古代トルコ民族が強大な勢威をふるっていたことが想像できる。
突厥の版図は、東の興安嶺から西のウズベキスタンのソグド地方に至る空前の地域だったという。しかも北アジアの遊牧民族史上はじめて文字を用いて、オルホン碑文(古代テュルク語碑文)を残している。オルホン碑文は、オルホン河東支流東岸を約40キロ北上したところにある。碑文の解読を含めて「古代トルコ民族史研究」一巻の「突厥の国家と社会」なる護論文が詳しい。
また突厥には狼の始祖神話がある。鉄勒の末期に隣国と戦って、ただ一人生き残った十歳の男の子が、牝狼が住む洞窟に匿われ、それと交わった。やがて十人の男児が生まれ、その子孫が繁栄して突厥帝国を作ったという。この下りは中国の史書である「周書」や「隋書」「北書」に出ている。
バイカル湖の畔で出会ったブリヤート人の女子学生に魅せられた私は、突厥大帝国の古代史に辿りついたのだが、それが現代のトルコ共和国に、どう結びつくのか興味が移った。護論文はそこまで研究を広げていない。「イスタンブル大学の歴史学徒はトルコ共和国の現代史に興味を持つが、古代トルコ民族に関心を持つ者が少ない」と嘆いている。
トルコを訪れたいと思って数年が去った。イスタンブルの観光も魅力的だが、騎馬民族が疾駆した東部アナトリアの山岳地帯を、この目で見たいと思った。トルコには「強きものが遊牧し、弱きものが耕す」という古い諺がある。イスラム化される前のトルコは素朴なシャマニズムと霊魂の世界でなかったか?

「古代トルコ民族史研究」二巻に護教授の「古代テュルク民族の信仰」という研究論文がある。ここでは「イスラムに改宗する以前の異教徒的テュルク民族は”シャマニズム信者”ではなかった」とするM・エリアーデ説やR・ダンコフ説に対して、オルホン碑文の解読などに依拠して反論、明白な事実としてシャマニズムの存在を唱えた。
ついでながら日本ではシャーマニズムの用語が使われるが、正確にはシャマンからくるシャマニズムが正しい。護教授はシャマニズムは「天地万物に精霊の存在を信じるアニミズム的な基盤を持つ」としている。シャマンはその霊能者。
東部アナトリアにシャンルウルファという街がある。古くは騎馬民族のフルリ人が支配し、やがてヒッタイト帝国が出現している。興亡を繰り返して西暦前700年頃、アッシリアに滅ぼされた。この街だけでも見たいと思っているが、いまだに果たせない。夏の温度は五十度を超えるというから老人にとってきつい旅になる。
まごまごしている中に一昨年、女房がツアーでトルコ旅行に行ってきた。東部アナトリアは日程に入らなかったが、中央アナトリアに足を伸ばし、カッパドキアの写真を撮ってきた。この地でカッパドキア王国が誕生している。その後、ローマ帝国に支配されたが、キリスト教信者が増えている。
七世紀にアラブ、回教徒に侵略され、キリスト教徒は地下都市に逃れて信仰を守ったという。私が追い求める古代トルコ民族の足跡とは違うが、ギヨメレ街郊外の奇岩群やカイマルクの地下都市は一見に値する。だが古代トルコ民族とトルコ人につながりは、まだ掴めていない。

コメント

タイトルとURLをコピーしました