麻生太郎外相の漫画好きは十五年前に従兄の古沢昭二弁護士から聞かされた。顧問弁護士だった昭二氏は「車の中にまで漫画を持ち込んでいる。けったいな政治家だが、見識があるので、いずれ総理大臣の候補になるのではないか」と言った。政治記者の経験がある私は「旧池田派・宏池会の星は加藤紘一だよ」と答えた記憶が残る。
この頃、昭二氏と私は毎週のように有楽町界隈の寿司屋で酒を酌み交わしていた。二人とも大酒飲み、腰が立たなくなるまで飲んだ。酔うと昭二氏は「ご本家様!」と私をからかう。私は「分家の昭二さん!」と応酬する他愛のない酒であった。
漫画は子供の世界だけのものでない。時代変化や世相の移り変わりに鋭く反応し、批判という厳つい手法とはひと味違う風刺という独特の世界を持った大人の文化でもある。昭二氏が亡くなって久しいが、ここにきて政界で麻生株が上がっているのをみるにつけ、麻生氏の漫画好きは本物だったな!と昭二弁護士を懐かしく想い出している。
新漫画派集団が昭和八年に発刊した「漫画年鑑」は、今では手に入らない貴重本になったが、近代漫画の世界を標榜した金字塔だと思う。近代漫画の祖・岡本一平の下に集まった若き横山隆一、近藤日出造、杉浦幸雄、中村篤九、岸丈夫らが思いおもいの漫画を発表している。
岡本一平が漫画年鑑に「日本の漫画について」という一文を草している。外遊して海外漫画に触れた岡本一平は、日本から帰国したイギリスの画家にロンドンで会ったが「日本という国は絵描きには恵まれた国だ」と言ったことを紹介しながら次の様に述べている。
漫画に対する日本人の理解は外国よりも深い。ただ漫画を低く浅くみる習慣的なものがあるからレベルが高まらない。もし漫画の高級性を理解すれば、日本人は描く心も見る心もずっと高くなれる可能性を持つ国民である。
私が所蔵している「漫画年鑑」も七十五年の歳月を経てボロボロとはいわないが、かなり古くなった。おそらく五冊も現存していないのではないか。これの復刻版を作って、主な図書館で一般が閲覧できる様にならないものだろうか。
岡本一平は戯画と文章を巧みに組み合わせた”漫画漫文”の世界を確立している。似顔絵は当代一流で、漫画と漫文はユーモア、風刺に優れている。東京・青山高樹町の邸宅は門前に市をなす様であった。昭和二十三年に疎開先の岐阜県西白川村で亡くなった。享年六十二歳。長男は岡本太郎、夫人は岡本かの子。
横山隆一といえばナンセンス漫画の第一人者。フクチャン連載漫画で一世を風靡している。いち早く新漫画派集団の新人漫画家の中で頭角を現したが「べんけいはなぜ七ツ道具を持っているのか?」の様な風刺漫画を漫画年鑑に残している。
新漫画派集団は、古風な戯画風の絵に長々と説明文をつける既製の手法に反逆した若手漫画家が集まった。スマートであか抜けたセンスの欧米漫画を志したが、一種の漫画改革の動きといえよう。「言葉よりも絵で笑わせる」とうのが合い言葉となった。その上に戦後漫画の大流行が築かれている。
”横山流”が新漫画派集団でもて囃されるにつれて、近藤日出造、杉浦幸雄、中村篤九、岸丈夫らは脱横山流で試行錯誤する日々があった。近藤日出造は「よし、ナンセンスは横山に任せた。オレは、得意な似顔絵を生かして政治漫画をやる」と宣言した。「あの柄が好きだい」は試行錯誤の時代の作品(漫画年鑑)。
杉浦幸雄も別の道を模索している。「オレは女をかく。女が主役の風俗漫画をかいて、女をかかせたら日本一の漫画家になってやる」と近藤日出造に見栄を切った。戦前の「ハナ子さん(主婦之友)」、戦後の「アトミックのおぼん」「コカ吉コカ子」「東京チャキチャキ娘」は女人礼賛主義者の杉浦幸雄らしい風俗漫画。
中村篤九は新漫画派集団の中でもずば抜けた才能の持ち主だったと思う。漫画年鑑の「ヒットラーのひげ由来」に片鱗がうかがわれるが、遺作となった「阿宝正傳」を読むと文章家としても優れていた。惜しむらくは戦後間もなく三十八歳の若さで亡くなり、その才能が大輪の花を咲かせずに終わっている。(漫画年鑑)
岸丈夫は孤高の漫画家で終わった。新漫画派集団で活躍し、風刺精神では岡本一平の影響を鋭く吸収した漫画家であったが、昭和九年に満州旅行でて帰国した後は新漫画派集団を離れている。戦前の活躍舞台はアサヒグラフ、週刊朝日、文藝春秋、中央公論など多岐にわたったが、戦後の漫画にはみるべきものがない。ある日、忽然と姿を消している。
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