366 信州人の反骨精神 古沢襄

軍師・山本勘介を描いたNHKの大河ドラマが始まった。永禄四年(1561)の川中島合戦で勘介は討死する。川中島合戦は「天と地と」の大河ドラマでも放映されて歴史観光ブームで沸いたこともある。
だが軍師・山本勘介が実在したか定かでない。川中島合戦も伝えられるような上杉謙信と武田信玄の華々しい一騎打ちがあったのだろうか。この二つとも江戸初期に集成された「甲陽軍鑑(こうようぐんかん)」に出ている程度で、確たる史実は存在していない。甲陽軍鑑は歴史書としては記述がいい加減で誤りが多い。むしろフイクョンの歴史文学ものというべきであろう。

だからといって甲陽軍鑑や大河ドラマにケチをつけるつもりはない。フクションの山本勘介を描いて、戦国時代に生きた一人の人間像を浮かびあがらせることが出来れば、ドラマとして成功するのではないか。ドラマが回を重ねると信玄の信濃攻略に移ってくる。
信州は山また山の険しい地形だから、至るところに豪族が群雄割拠していた。それを信玄は調略で各個撃破し、時には甲州の騎馬軍団で粉砕して、信濃をわが手にしている。従う者は許し、従わざる者は殺戮している。その信玄に最後まであがなったのは佐久衆。佐久地方は反抗と皆殺しの悲劇の歴史が残っている。
信玄に屈服した豪族たちは次の合戦では甲州軍の陣立ての最前線に立たされている。子飼いの騎馬軍団の犠牲を少なくするためで、戦国の武将はいずれもこの策を用いた。犠牲者の多くは信濃の雑兵・農民兵となった。
難しいのは、それをリアルに描くとフィクションのドラマが成立しないことになる。お話にポイントを置き過ぎると「史実とは違う」と抗議を受ける。一言居士が多い信州人だから大河ドラマが進むにつれてNHKは投書や抗議電話に悩まされるのではないか。
作家の新田次郎は信州・諏訪の人で、その先祖は代々諏訪氏に仕えた郷士。諏訪氏は信玄によって滅ぼされたが、その思いがあったのであろう。昭和三十九年から百回の連載で「武田信玄」を歴史読本に書いた。信玄を描くに際して史実に忠実であるべく努めているが、小説だから甲陽軍鑑に依拠するところが多い。
信濃制圧に際しては過酷な武将だった信玄も、信濃経営に当たっては寛大な為政者の顔をみせている。佐久地方を除くと信州人の遺恨は少ないことを発見している。それでも連載小説が回を重ねるごとに読者から抗議の手紙が増えた。中には「書き直せ」といってきた人もあったという。「歴史小説を書いていると、思わぬ伏兵がいるものである」と新田次郎はあとがきで書いた。
私は母系ながら信州人の血筋を継いでいる。時々思うのだが、信州人は理屈っぽいだけでなく反骨精神が豊かである。やはり山また山の険しい地形で至るところに小豪族が群雄割拠した風土から信州人の性格が育まれたのではなかろうか。
木曽に行ったことがある。木曽義仲の故地だが、佐久地方と同じような反骨の風土を感じた。信玄の子・武田勝頼は諏訪頼重の娘・諏訪御寮人を母に持つ。諏訪地方に行くと絶世の美女だった諏訪御寮人を懐かしむ風土が残っている。信玄がもっとも愛した側室で、勝頼に対する愛情も並々ならぬものがある。(武田勝頼像)

信玄の勝頼偏愛が武田家滅亡の遠因になったと私は思っている。武田一族で穴山信君(あなやま・のぶきみ)という武将がいた。母は信玄の姉。武田二十四将の一人だが、従兄弟の勝頼とは対立が絶えず、長篠の戦いの際には勝手に戦線を離脱している。これに怒った高坂昌信は信君を切腹させるべきだと唱えた。
信君は諏訪氏の血を引く勝頼よりも自分が武田家の頭領という意識が強かった。1582年に武田氏は滅亡するが、信君はすでに織田信長、徳川家康側にくら替えしていた。信君の裏切りという内紛によって武田氏が滅びたとみるのが妥当であろう。
勝頼が血気にはやる愚将というのは俗説ではないか。信長から謙信へ宛てた手紙には「武田四郎(勝頼)は信玄の言付をよく守り、表裏の進退も巧く油断できない」と述べ、この手紙は現存している。
事実は徳川、後北条氏の戦いでみせた勝頼の戦術の機敏さや武勇の数々は、猛者の多い武田古参の武将たちと比べても遜色ない。甲陽軍鑑は「強すぎる大将」と勝頼を評している。敗者の盛名は埋もれて、愚将の俗説が伝わるのが歴史の定めなのかもしれない。

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