「人は石垣、人は城」。ご存知、武田節の一節である。もと歌は〝人は城 人は石垣 人は堀、なさけは味方 あだは敵なり〟である。ヘソ曲がりの私に言わせれば「ほんまかいな!」といいたくなる。
中世の城は石垣を築いていない。いわゆる”山城”。小高い丘に空壕を巡らし、敵が攻めてくれば、迷路のような空壕に導き入れて、上から矢戦を仕掛ける。丘のうえには平地があって長屋のような居館が散在している。丘の下には雑兵となる農民が住む粗末な家があって、平時には田畑を耕している。
関東平野にある戦国時代の城は、この形式をとっている。代表的な山城の遺構は祇園城趾や牛久城趾。いずれも深い壕が巡らされ、牛久城趾は鬱蒼たる竹林に覆われている。その他でも少し小高い丘があれば、調べれば必ずといって良いほど掘割がみつかる。そのほとんどが出城の遺構なのだが、住む人は気付いていない。埋め立てて宅地造成をしている。(写真は祇園城趾)
信州は山岳地帯が多いから本物の山城の遺構が多い。山の上に城を築けば難攻不落の様に思うのだが、実は致命的な欠陥がある。食糧を山の上まで運ぶのに難儀する。城を囲まれて山道を封鎖されれば、城兵は飢えて降伏するしかない。
もっと重要なのは水を絶たれることである。山の上だから井戸をよほど深く掘らないと水が出てこない。深堀井戸の技術が発達していない時代だから、多くは山の清水を木製の管で城まで導いているが、城攻めはまずこの水源地を発見することから始まる。水源を絶てば、あとは城を囲むだけで三ヶ月もあれば落城する。
武田信玄はこの戦法で信濃の城を落としている。しかも信濃などの外征を主としてきたから本国の甲斐に城を築く必要がない。隣国の北条、今川とは婚姻で同盟関係を結び、峠を封鎖して守りを固めた。甲斐国そのもが山城だったといえる。(信玄画像)
もう一つ重要な点がある。これは越後の上杉謙信にもいえることだが、甲斐の金山こそが信玄の力の源泉であった。豊かな金(きん)を使って、敵方の調略に多く用いている。武田の騎馬軍団の力よりも、武田菱の刻印がついた金の方が勝ったといえる。信玄は調略に金を惜しまず使っている。謙信には佐渡金山があった。
まさに「金は石垣、金は城」ではないか。こう見ると信玄は軍事的な天才というよりは、類い希な政治力を持った人物といえる。だが甲斐の金山の産出高が減るにつれて、信玄の力にかげりがみえてきた。「人は石垣、人は城」といいながら、肝心の一族から穴山信君のような裏切り者が出ている。
信玄の教訓は、軍事力だけでは全国制覇ができない。経済力を伴った政治・外交こそが強国への道であることを示している。それは現代でも変わらない。
368 武田節の「人は石垣、人は城」 古沢襄

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