このところ各地の古沢姓の方からメールを頂くことが多くなった。古沢姓はそうは多くない。私の調査では岩手県の紫波町北田、西和賀町沢内、茨城県の下妻市古沢、八千代町、神奈川県の厚木市古沢、静岡県の御殿場市古沢、小山町、九州の大分県などに固まって古沢姓がある。
このほか富山市古沢、滋賀県の彦根市古沢町などがあるのだが、そこまでは調べがついていない。小山町を例にとれば古沢邑という地名があったのが、明治22年の町村制の施行によって北郷村となっている。北郷村は昭和28年の町村合併促進法により小山町に合併されたので、古沢の地名はなくなっている。
日本の苗字の八割は地名に由来している。したがって古沢の地名に目星をつければ、古沢姓の一族を捜しあてることになるのだが、町村合併によって静岡県小山町のように古い地名が消えてしまう例がかなりある。
私は別の手法、いうなら日本の中世史から古沢姓の手がかりをいくつか掴むことが出来た。小田原攻めにでた武田信玄は永禄十二年に駿河国の古沢新城(甲陽軍鑑では深沢城)と三島城を攻めた。古沢新城は北条氏繁が守る小城だったが、鉄砲で武装され城の固めが厳重で信玄は苦戦している。
新城というから武田の侵攻を防ぐ急造の城であったろう。この地は北の山伏峠、三国峠、明神峠を経て東の足柄峠からの道と交差する要衝の地点。だからこそ北条綱成の子で武勲の誉れ高い氏繁を守将に立てた。地侍には古沢姓を名乗る者があったと思う。旧北郷村古沢邑は隣村だから、御殿場市古沢の同族がいたのではないか。
厚木市古沢は関東の古沢姓の本流の地というべきであろう。古くは藤原秀郷を祖とする古沢近藤太能成なる鎌倉ご家人が吾妻鏡に出てくる。その長子・能直が源頼朝の陸奥征討軍に従って軍功をあげて、豊前守兼鎮守府将軍に任ぜられて九州に下向、大友姓を名乗った。大友宗隣の祖先。九州に古沢姓が多いのは、この流れとみることができる。
これに較べれば茨城県の下妻市古沢、八千代町の古沢姓は比較的新しい。もとはいえば赤松姓。播州赤松氏の一族だから、歴史の古い点では秀郷流古沢氏とは劣らない。私は赤松系古沢氏と言っている。
関ヶ原の合戦後、主家の多賀谷氏が滅亡したので多くは武士を捨てて、茨城県内に土着している。古沢姓から赤松姓に戻った一族もいる。一部が東北に流れたが、二つの流れがある。一つは佐竹家に帰参した多賀谷宣家配下の古沢一族。能代城に入っているが、一国一城令によって能代城が破却されたので、この地に土着。現在の能代市には古沢姓は見当たらない。その流れが岩手県の西和賀町沢内にきたとみている。
もう一つは盛岡の岩手県立図書館にある全五巻の「参考諸家系図」に出てくる南部藩士・古沢姓の出自である。「生国常陸の人なり、浪士にて南部領山田村に来たり、北田村に移る」とあって、さらに「その末裔が宝暦年間に沢内代官となる」と記載されている。
私は北田村の古沢一族を求めて、紫波町北田を訪れた。この地には街道をはんさんで古沢姓の家が二十軒も並んでいた。生国常陸の人の名は古沢清右衛門、その末裔の菩提寺は正音寺という古刹だった。
かなり駆け足で全国の古沢姓の一部だがご紹介してみた。十年も歳月をかけた割には遅々として進まないというのが正直なところである。新しい情報があればご教示願いたい。
370 全国の古沢姓を調べて十年 古沢襄

コメント
はじめまして。自分の苗字について勉強になりました。
祖父が大分の竹田出身です。鹿児島には電話帳を調べた
範囲では、ほとんどいません。
愛媛から香川にかけて古沢性がそこそこいるとの話を
聞いた事があります。このブログを読んで大分から
豊後水道を渡り広がっていったのかな、と想像します。
鹿児島には何度か行きました。南日本新聞社の編集局長が、薩摩隼人の風貌を残した快男児で、西郷隆盛の墓を詣でた記憶が鮮烈です。
宮崎の古沢姓、鹿児島の古沢姓は島津公に降った大分の古沢一族の末裔なのでしょう。源流を探れば、鎌倉武士の末裔。それが九州の地で残ったのは壮観です。
お説の様に四国に古沢姓があるのは、豊後水道を渡った大友一族の古沢氏や古庄(ふるしょう)氏の末裔でしょう。
大友家が九州北部で勢威を振るった時代の名残です。
姓氏家系大辞典の「古沢」の項には「古沢姓は播磨、備前、信濃、武蔵、讃岐、摂津などにも多し」と記載されております。
初めまして 古澤と申します。下妻市在住です。八千代町川尻に親戚もおります。
下妻市内には親戚ではないであろうと思っている付き合いのない古澤さんと,近しい親戚の古澤さんがいます。