371 出てきた三島対談録 渡部亮次郎

資料を整理していたら昔、珍しいことをしていたことを今更ながら発見した。園田直元外務大臣(故人)が自民党国対委員長当時、三島由紀夫さん(故人)と対談していた。三島さんが自決する年の正月のことだった。
記事は園田さんの後援会の機関紙『インテルサット』(月刊)の昭和45(1970)年2月15日号に見開き2ページで載っている。これを企画したのはNHK政治記者当時の私。社会部の先輩記者伊達宗克(だてむねかつ)さんを通じて三島さんに依頼した。
伊達さんは既に三島さんとは面識はあったが、仲介してくれた新潮社出版部長の新田敞(にったひろし)さんの面子を考え、新田さんに改めて依頼した。
三島さんからは早速快諾を戴いたが、急に衆議院解散・総選挙となったため、園田氏が「文豪を選挙に利用したようなことになるから悪いが、延期してくれナベしゃん」となり、実現したのは昭和45年の正月明け早々。赤坂の料亭「岡田」の一室。岡田も今はない。
大東亜戦争で特攻隊生き残りの園田さんと、楯の会を結成し盛んに天皇を中心とする文化防衛論を展開している三島さんを会わせたらどんな話になるだろうかとの興味から発したことだったが、狙いは当った。
伊達宗克 昭和3年8月18日愛媛県生まれ。夏目漱石の『坊ちゃん』で知られる旧制松山中学を卒業後、日本大学芸術科を経て同大法学部新聞学科を卒業。昭和29年8月、東京日日新聞社会部からNHKに移り放送記者となる。
昭和45年11月、親交のあった三島由紀夫から市谷台で事件の総てを明かし後事を託した遺書と檄文を受け取り、事件の目撃者となる。
昭和55年4月、三笠宮寛仁親王の御婚約をスクープ。昭和56年4月、駒澤大学マスコミ研究所でマスコミ講座担当。昭和58年4月、三笠宮容子内親王の御婚約をスクープ。
昭和59年4月、日本大学芸術学部講師。昭和60年8月、NHKを定年退職、同解説委員となる。昭和61年10年、中京女子大学教授、同コミュニケーション研究所所長。生涯にわたってマスコミ各界の人材を養成する「伊達学校」を主催。昭和63年1月15日、慶応大学病院にて逝去。享年59歳。
一方、新田敞さんは東大を出て新潮社に入り、数々の文学者を担当。山本周五郎担当時代の思い出をよく語ってくれた。三島さんの最期を見届けた編集者となった。
新潮社では専務取締役で退任。その人柄を小説家吉村昭(故人)著『わたしの普段着』(新潮社)より引用する。
<昭和53年の秋も深まった頃、新潮社の出版部長新田敞(ひろし)氏が、私の家に訪れてきた。用件は外交官小村寿太郎を素材に長編小説を書いて欲しい、という依頼であった。
それより数年前、日露戦争を結果的に日本の勝利にみちびいた日本海海戦を主題にした「海の史劇」という小説を発表し、小村を全権とした日露講和会議がアメリカのポーツマスでおこなわれ、条約が締結されたことにふれた。
それを読んだ新田氏が、「条約締結の実情が、今までの定説をくつがえすものですので、それを掘りさげて書いていただきたいのです」と、熱っぽい口調で言った。(中略)
日露戦争で日本は連戦連勝はしていたものの、日本の戦力は底をついていて、これ以上戦さをつづければ日本が敗北することはあきらかだった。それを避けるには譲歩しても戦争はやめるべきだという考えから、小村寿太郎全権はロシア側の要求も一部いれて条約締結に持ち込んだ。
それを知らぬ国民は、小村全権を非難し、暴動まで起した。そうしたことから小村は腰抜け外交官というレッテルを貼られ、それがその後長い間定説となっていたのである。新田氏の依頼に私は、歴史は正しく後世に伝えておかねばならぬと考え、執筆を決意した>。
この当時、私はすでにNHKを辞し、外相となった園田氏の秘書官になっていた。ある日、新田さんが吉村さんを伴って大臣室を訪れ、ポーツマスの条約交渉現場を見たいという吉村さんの希望をいわれた。
大臣命令で私はワシントンの東郷大使に依頼電報発出の手続きをした。吉村さんの視察は実現し、作品『ポーツマスの旗の下に』が完成した。
対談内容の紹介は別の機会に譲るが、対談の終わった後、三島さんが武道家としても有名だった園田氏に「切腹の作法を教えてください」と言った。そこで園田さんは軽い気持で一通りのことを伝授した。まさか11ヶ月後にああなるとは園田さんも誰も予想しなかった。
三島さんは伝授されたとおりの作法で果てたらしい。事件を聞いて佐藤栄作首相は「狂っている」という趣旨のことをもらした。園田さんは葬儀に参列した。「政治家はワシ1人だけだった。情けないね」とつぶやいた。2007.01.09

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