373 紋章を求めて”墓荒らし”の記(1) 古沢襄

一時”墓荒らし”に凝ったことがある。というと穏やかでないが、墓に刻まれた紋章を撮りまくった。その数は三百枚近くになる。私と同じように墓めぐりをして家紋の採取をした人がいる。北は北海道の稚内から南は沖縄の果て与那国まで行っている。これは本格的な紋章調査。
この人が採取した紋章の種類は約二万。基本形で整理すれば約四百種の家紋が日本にあるという。日本家紋学会の会長で”紋章学”の権威・丹羽基二氏が、その人。私の場合は、わが家の家紋である”丸に蔦”の紋章が、関東地方にないものかと思って探しまくった。だいぶスケールが違う。
日本最古の紋章集は「見聞諸家紋」。原本は未発見だが、何冊かの写本が残っていて、そのなかでも新井白石本が有名である。また大正十五年に発刊された沼田頼輔氏の「日本紋章学」の大著がある。幻の名著と言われた「日本紋章学」だが、偶然に神田の古書店で発見して入手することが出来た。
丹羽基二氏は全国の墓から紋章を集めて、地域的な家紋の分布を調べている。代表的な例示として①栃木県に多いのは巴家紋②山梨県に多いのは菱家紋③岐阜県に多いのは桔梗家紋④熊本県に多いのは鷹の羽家紋・・・としている。
家系図というのは江戸時代には、売買されているから当てにならない。しかし墓に刻まれた紋章は、風雪に洗われても消えない。菩提寺にある過去帳は大切な資料になるのだが、ロウソクやお線香をともすのがお寺。ほとんどのお寺が過去に火災にあっている。そんなわけで墓の紋章は、同族探しやルーツを求めるうえで重要な手がかりとなる。(古沢家の過去帳)

自分の家のルーツを本格的に調べようと思ったら十年はかかる。私は一代・三十年という数え方をしている。父・祖父・曾祖父ぐらいまでなら、どの家庭でも調べられるだろう。自分を含めて四代・百二十年ぐらいまでは、それほど苦労せずに分かる。それから先は羅針盤なき船で嵐の海を渡るようなものである。
平成十九年は明治何年か、と意地悪い質問をしても誰も答えられない。だが百歳が明治四十年生まれというのを知っている人は結構いる。百二十歳は明治二十年生まれとなる。江戸時代に遡ってルーツを探るとなると、菩提寺の過去帳や先祖の墓の戒名、できれば古文書の記載といったものが必要になる。私は十代・三百年の歴史を解明するのに十年かかっている。
こうなると余程の物好きか、地方史好みでないと続かない。古文書も読める方が良い。たいがいの人は、これだけ話をするとルーツ探しをあきらめる。ほとんどの人は、自分の家の紋章を知らない世の中となった。家の意識が無くなったからである。苦労してルーツを探しても何の得にもならないという思いの方が先に立つのは時代が変わったからだ。
さて、前置きが長くなってしまった。”墓荒らし”の話に戻る。西和賀町沢内にある古沢家の最古の墓碑は延享五年(1748)のものがある。墓碑銘は読みとれない。菩提寺の過去帳で最古の人は安永二年(1773)没の玄質道了信士、生年は不明だが「雫石村生まれ」とある。最古の墓碑は玄質道了信士が立てたものであろう。おそらく母のものではないか。
とすれば玄質道了信士の父の墓が隣村だった雫石町にある筈ではないか。西和賀町沢内の菩提寺は曹洞宗・玉泉寺という。雫石町に同じ曹洞宗の広養寺があった。調べてみたら古沢姓の墓が一基あった。「これだ!」と思った。雪の日だったが三人で飛んでいった。
きっかけは西和賀町長の高橋繁氏が雫石町の旧家に伝わる古文書から古澤理右衛門義重という人物を発見してくれた。九年前の夏のことである。「岩持忠兵衛家本」という天正十九年(1951)から元治元年(1864)までの写本で、この筆跡の人物の署名が雫石町古澤理右衛門義重になっているという。
秋にはいって高橋繁氏から雫石の下久保、末永久右衛門家に伝わる「九戸軍記」の奥書に「滴石町古澤屋理右衛門、門弟兵助主」と記されてあると知らせがあった。これから類推すると雫石町に古澤理右衛門という寺子屋の師匠がいたことが間違いないと思われた。秋が深まる頃、私は高橋繁氏と霙(みぞれ)まじりの雪の日に雫石町の広養寺に行った。車の運転は亡くなった沢内村長の加藤昭雄氏。三人とも歴史好きの仲間であった。(岩持忠兵衛家本)

古澤理右衛門の墓は二基並んでいた。一基は妻の墓、いずれも門弟たちが立てている。墓碑には「古澤利右衛門 文化八年十月六日」とある。文化八年(1812)は最古の墓碑は延享五年(1748)から六十四年後のものである。玄質道了信士の父の墓ではなかった。墓に刻まれた家紋は「相香の紋章」。これは雫石の豪商・高嶋屋が使った家紋である。
これらから雫石町に居住していた農民・古沢氏が沢内村に移住したが、豪商・高嶋屋の庇護を受けていた理右衛門は残ったことが考えられる。理右衛門の死後は雫石町から古沢姓が消えている。ともに「古沢屋」の屋号を使っているので、同族とみても良いのではなかろうか。
屋号というのは農民・町人の間で江戸時代には、かなり使われている。江戸中期の人口はおよそ3000万、その一割が苗字を持つ公家、武家、神主、医者、庄屋、学者なのだが、残る九割の2700万は苗字を持てない。そこで苗字の下に「屋」をつける屋号が流行った。
明治四年に戸籍法が施行されて、明治八年に平民も必ず苗字を付けることになった。多くの農民や町民は屋号の屋の字をとって苗字にしたが、屋号を持たない人たちの多くは住んでいた地名から苗字を付けている。これによって日本では約二十七万の苗字ができた。(明治の戸籍謄本)

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