375 紋章を求めて”墓荒らし”の記(2) 古沢襄

私の家は農民の出だから家紋はないと決めこんでいた。民主主義の世の中になったのだから家紋なんて古びたお化けの様なものには関心がなかった。一九九八年に「沢内農民の興亡 古沢元とその文学」の出版を思い立ち、その取材で菩提寺の玉泉寺を訪ねたら、泉全英大和尚が本堂の正面に私を連れていった。
本堂の正面に「一点山」と金張りで書いた山額がある。総漆塗りの豪勢な額であった。寄進者の名は古沢屋、文久三年(1863)のものだという。「あなたのご先祖様から戴いたものです」と和尚はいう。「いくらぐらいするもんだべ」と私はトンチンカンなことを言ってしまった。「さあー、八百万円はするだべ」と和尚は調子を合わせてくれた。

よく見ると六カ所に家紋が入っていた。蔦の家紋であった。家に戻ってから仏壇のあちこちを探してみたら、仏具には蔦の家紋が記されてある。「家の紋章は蔦なのか」といったら女房が「今頃、何を言っているのですか」とあきれた顔をした。他家から嫁にきたくせにわが家の紋章のことを亭主よりも知っている。
それから家紋のことを調べる気になった。もともと一つのことに熱中する癖がある私のことだ。十年も家紋のことを調べていると、ちょっとした家紋通になった。そのうちに病が高じて墓荒らしまでやるようになった。
紋章博士の丹羽基二氏によると蔦家紋が流行ったのは江戸時代、徳川将軍吉宗は葵の紋章の他に蔦家紋を使ったという。蔦は地をつたわってはびこる。子孫が繁栄する目出度い紋章とされた。風変わりなのは、お江戸の花魁にも流行ったことだ。客にまとわりついて離れない縁起をかついだという。”お蔦さん”という名前も流行った。
だが東北には蔦家紋が少ない。逆に北関東に多いという特徴がある。その頃、私は古沢家の十代三百年の調査が一段落して、その先を調べていた。目星をつけたのは下妻市古沢、厚木市古沢、御殿場市古沢の三カ所。苗字は地名からくるとみて地元の教育委員会に足を運んだ。
下妻市の教育委員会が川向こうの八千代町教育委員会を紹介してくれた。どこの教育委員会にも教師の経験者がいる。地方史に精通している人がいて、私のルーツ探しに興味を示してくれた。「どちらの学校ですか」と聞かれたので「西川口中学校で教育実習をしました」というとお茶を振る舞ってくれた。ジャーナリストなんて気取って言うものではない。郷に入ったら郷に従うのが早道。
八千代町でも、その伝でいった。紹介されたのは「八千代町歴史民俗資料館」と「赤松山不動院」であった。歴史民俗資料館には古沢美濃守常範が着用した鎧・兜が一式展示されている。兜に九曜の紋章がある。川尻地区にある赤松山不動院は田圃の中にあった。ここには赤松一族の墓所がある。宗家の墓碑にも九曜の紋章が刻まれていた。

九曜の紋章は桓武平氏良文流の千葉氏が用いている。天体信仰からくる家紋で生命保全と戦勝祈願が籠められた武家紋。北斗七星を神格化した菩薩・妙見信仰によるものである。関東では千葉一門が用いたものだから、赤松氏はその流れだと思った。
しかし赤松山不動院に伝わる「不動院縁起」では赤松氏の出自を播州赤松氏としている。赤松円心則村を宗家とする播州赤松氏の家紋は左巻の巴紋である。一族の紋章は、菊、八重菊、桐、五三桐、竜胆、笹竜胆、松、三階松、七つ星、七曜と多岐にわたっている。
七曜紋は七つ星紋ともいう。北斗七星を神格化したことから北斗星紋ともいわれて、妙見信仰によるものだが、関東にきて星二つを加えた九曜紋が流行ったと考えられないものか。私はその様に考えている。さすれば川尻赤松氏は播州赤松氏の支流からきたと位置づけることが出来る。
しかし私にとって九曜紋にはそれほど関心がない。赤松姓が何故、古沢姓になったか(この点は杜父魚ブログの「真田幸村の娘・お田の方」で解明してある)、赤松山不動院に林立している一族の墓碑から蔦家紋を発見することにあった。
多賀谷氏の興亡史を研究していた古沢一朗氏に「赤松山不動院には九曜紋以外の紋章がついた墓がありますか」と聞いたことがある。「上がり藤紋がありますが・・・」というのが返事であった。赤松系古沢氏の末裔である古沢一朗氏の家紋は上がり藤紋。蔦紋のことは知らなかった。
長女を連れて赤松山不動院を訪れた私は、数多くの蔦家紋がついた古沢姓と赤松姓の墓を発見した。この時の感動は言葉ではいい尽くせない。東北にはほとんど見られない蔦家紋が赤松山不動院にあったのである。周辺を歩きながら古沢姓が数多くあるので、その家の門を叩き、使用している紋章を聞きたい衝動にも駆られた。
「生国常陸の人なり、浪士にて南部領山田村に来たり、北田村に移る」とある紫波町北田の古沢氏から「その末裔が宝暦年間に沢内代官となる」とある系譜が生まれた。それが私の先祖と関係があると考えた時期もあったが、この系譜の家紋は梅鉢紋。池田元首相の家紋でもあるのだが、東北には宮城、山形県を中心にしてかなりある。家紋からみて別流と私は考えざるをえない。
それよりも佐竹文書の梅津政景日記に出てくる古沢助丞(介丞とも出てくる)が謎を解くカギだと思っている。梅津政景は常陸国時代から佐竹義宣に仕え、秋田藩初期に藩財政を預かって功労があった。とくに能代周辺の木材や米について記録を残している。
当時の檜山城には多賀谷宣家(佐竹義宣の弟)が多賀谷家臣四〇人を率いて入城していた。古沢助丞はその家臣団の一人。梅津政景は宣家には一目おいていて、能代材木の買い付けでは古沢助丞を使っている。一国一城令で檜山城が破却された後には、古沢助丞の名前が梅津政景日記には出なくなった。おそらく直接買い付けに転じたのであろう。
現在の能代市には古沢助丞の墓など一族の消息を伝えるものは残っていない。土着して農民になったと思われるが、蔦家紋を持つ古沢姓がみつかれば、川尻の赤松系古沢氏の末裔に間違いない。能代から雫石を経て西和賀町沢内に至る歴史路を何とか辿ろうと思いながら十年の歳月が去った。

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