幼い頃の故郷の味がどんどん無くなって行く。秋田弁がテレビの普及でなくなっていっているように秋田で無ければ食べられなかった鉈漬(なたづけ)も砂糖漬けのようになってしまった。
TVの悪口をついでに言えば、TVの普及が真正「秋田音頭」をこの世から追放してしまった。時折、TVに登場する秋田音頭は替え歌に過ぎない。放送コードとやらが性を大らかに歌った真正秋田音頭を追放したのだ。いまや歌える人は殆ど居なくなった。
秋田といえば昔は美人の国。「山本富士子が田植えをしている」のが角館(かくのだて)だ」といわれて、なんだか照れくさくなったが、少子高齢化の先頭を走る秋田県には希望というものが感じられない。
固有の文化に気付かず、先祖から伝えられたものを守ろうとしない。そんなこととはつゆ知らず、秋田空港で鰰鮓(はたはたすし)を買って食べたところで仰天した。ほんのりとした飯鮓の甘味でなく、砂糖そのものの味になっているのである。
これはみやげ物として売られている秋田県の食べ物のすべてについていえることである。専門家に聞くと日保ちさせるために防腐剤を大量に入れるから酸っぱくなる。それを消すために砂糖を大量に入れる、そのためだという。
したがって日本橋三越で買う「しょっつる(塩汁)」も大甘。私に言わせればしょっつるとは全く無関係な味になっている。子供の頃は、裏の畑の茄子や胡瓜を塩漬けにして盛大に喰ったものだが、最近は帰省しても喰わない。あろうことか砂糖が入っているからである。
これは昔は無かったスーパーの漬物が防腐剤と砂糖にまみれているから、地元住民の舌が、それで狂わされてしまい、砂糖入りの茄子漬、砂糖入りの胡瓜漬けで無ければ美味しくなくなってしまったのである。嘆かわしい。
冬になると秋に引き抜いた太い大根が飴色に漬かった「鉈漬け」を混じった氷片と一緒に食べるのが楽しみであった。東京で作ろうとしても暖かすぎてすぐ酸っぱくなる。一度冷蔵庫入りで挑戦したが、冷蔵庫は秋田の冬ではなかった。重しが十分でないから失敗した。
いつか日本橋三越を覘いたら青森の漬物業者が「鉈漬け」を売っていた。欣喜雀躍して大量に買いこんで帰宅。夕食に空けてみたら、悪い予想はすぐ当る。砂糖まみれの鉈漬けは食べるに値せず、すべて廃棄処分となった。
既に母も死んだし、家を継いだ妹一家は倒産して、いまや帰るべき実家は無くなった。70を過ぎ、あの懐かしい鉈漬け。2度と出会う事は不可能になっと嘆いたら矢野恵之助(やのえのすけ)君が気の毒がって、手作り、砂糖抜きの本物を宅配の冷蔵便で届けてくれた。有難くて涙が出た。
矢野君は日本三大盆踊りで有名な西馬音内(にしもない=雄勝郡羽後町)で秋田県内有数の呉服屋の長男。秋田市の県立秋田高校(明治6年9月1日創立)の2年の時、同級になった。感性の鋭い文学青年だった。青山学院大学を出て帰郷。現在は秋田市のマンション1階に暮している。
<鉈漬けは正確には「ナダヂゲ」であってナタヅケなんて綺麗な言葉でいうのは偽物なのだ。シガ(氷)の張った桶から取り出し、歯にしみるほど冷いうちに食うものである。私は今もそれをふんだんに喰っている。
言うまでもなく漬物はバイオそのものである。どんなに美味く漬かっても、それを真空パックしてしまうと味は半減してしまう。漬物には塩何グラムなどという決まりは気休めでしかあり得ない。商売人は年中、同じ品質にする必要があるからソルビン酸や保存料、天然色素など添加物を入れざるを得ない。
漬物は材質(食材)、その時の気候、漬け桶の置き場所の風通し、温度など微妙な違いで出来上がりも違ってくる>。と矢野君はFaxしてきた。
秋の午後、庭で大根を鉈で乱切りに切らされた。母がそれを直径60センチぐらいの深い桶に入れ、塩と麹にまぶし、蓋に石の重しを載せた。正月にそれを取り出して食べた。桶の表面に張っていたシガ(氷)も混じっていた。単純だが、飴色に漬かったナダヂゲは絶品だった。矢野君のはそれを再現していた。
あの文学青年はいまや庖丁師になったらしい。毎夜、孫たちのために腕をふるって居るそうだ。贈物にはナダヂゲのほかに「蛸の鮓」「奈良漬け」「鱈子の炒り煮」といったものも入っていた。もちろん彼の手作り。まだ若いという味噌も入っていたのに驚いた。故郷風味の継承者になってしまった。
<私の孫は中3と小6で共に今春、進学する。彼らのために私は厭な韓国料理もレパートリーに入れなければならない。我々老夫婦は3世代6人分の夕食を作るのである>。
矢野君は「鱈のざっぱ汁」をはるかに超える秋田県南、特に西馬音内近辺に伝わる鍋料理「大根摺り貝焼き」を教えてくれた。秋田県の中央、それも元の八郎潟沿岸という食文化水準の一番低いところに育った私にはとても珍しいものである。いずれ成果を披露しよう。2007.01.11
376 故郷風味の継承者 渡部亮次郎

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