常陸国の赤松系古沢氏の足取りを追っていた私は、赤松宗家が用いた九曜の紋章を発見したのだが、その支族が用いた蔦の紋章の方に関心があった。だから「宗家の九曜紋にはそれほど関心がない」と言ったが、根が何にでも首を突っ込む私のことである。
関東の名門だった千葉一族については、それなりに調査を行った。千葉氏の紋章を求めて”墓荒らし”まではしていないという意味で「それほど関心がない」と言うべきであろう。千葉氏四百五十年の歴史について千野原靖方氏の「千葉氏」なる大著がある。私はその「室町・戦国編」を持っているだけだが、その興亡の歴史には妖しい魅力がある。
千葉宗家の紋章として伝えられているのは「月星」紋。斜め左に向いた上向きの三日月に一つ星を加えたものだが、この意匠が使われだしたのは江戸時代中期以後のことである。それ以前の月星紋は「上向きの三日月に一つ星を加えた紋」や「上向きの三日月の周りに九星を加えた紋」であったとされている。(月星紋)
その出自も桓武平氏良文流とされているが、もっと歴史が古く古代氏族の末裔、古代多氏の部曲の多部(おおべ)の出という説もある。月星紋を使用する以前には「松竹梅鶴」や「五葉の根たけ(笹)」紋を使用していたとも言われている。この領域になると浅学の私には手におえない世界だから、次のことをご紹介することにとどめたい。(五葉の根たけ紋)
千葉一族は東北に多く移住している。宮城県亘理郡に移った武石氏の子孫である湧谷伊達氏の文書「湧谷文書」に「御幕紋之儀ニ付下総国ニテ千葉妙見之縁起図井ニ公儀エ被仰上候品有リ」と題する千葉氏の家紋の調査をした報告書がある。仙台藩一門で湧谷伊達氏の当主・伊達宗元の手によるもの。
元禄二年、家臣を下総の妙見寺に遣わして調査した。神紋は「九曜之様成十曜又中ニ半月ニ九星二色ニ御座候」と報告され、中央は満月もしくは半月、周りに九星を配した「十曜紋」だった。
千葉氏の家紋とされている今日の「月星紋」とは違うが、江戸時代中期以後に変化したとみるべきだろう。千葉宗家そのものは、秀吉の小田原攻めで後北条氏が滅亡した時に滅亡している。また千葉氏の支族では、「満月の九曜紋」や「九曜紋」「七曜紋」などの多曜紋が使われたとされているが、私はまだ墓の調査をしていない。(九曜紋)
紋章学で一番詳しいのは大正十五年に発刊された沼田頼輔氏の「日本紋章学」であろう。その中で「日月紋」は支那から伝わったとしている。日本では太平記に初めて皇室の錦の御旗で金銀を使った日月のことが出てくる。沼田氏は「日月を朝廷の御紋章と定め給へるは、後鳥羽天皇から後醍醐天皇の間に於いてせられたるが如し」とした。また皇室の菊の紋章は鎌倉時代で日月紋よりは日が浅いと述べた。
「月星紋」は妙見菩薩を信仰する紋章。妙見信仰は平安時代の初期から行われているが、軍神として崇められている。これも支那伝来の北斗七星信仰(北辰ともいう)からきている。起源は漢代まで遡り「漢書」に出てくる。
さらに沼田氏は「九曜紋」は古代インドの卜占で用いられた九つの星(羅?、土曜、水曜、金曜、日曜、火曜、計都、月曜、木曜)からきているとした。本来が天地四方を守護する仏神で公家の間でも流行った。平家一門の良文流千葉氏が「九曜紋」や妙見菩薩の信仰に帰依したいきさつは「千葉傳考記」にある。
延長九年(931)に同族の平国香と争った平良文は、戦いが利あらず敗北寸前まで追い詰められたが、北斗七星妙見菩薩が現れて、軍を全うして帰った。多分に疑わしき話だが爾来、妙見菩薩が良文一族の軍神となったのは間違いない。
太田亮氏の「姓氏家系大辞典」によれば、総州(上総・下総)は板東平氏が発祥の地。高望王が上総介となって長子の国香が常陸大掾、五男は良文(村岡五郎)。良文の子・忠頼(村岡次郎)が千葉氏の開祖となっている。ついでながら高望王の次男・良将の子が平将門。国香は将門によって滅ぼされたが、その子・貞盛が承平天慶の乱で下野国押領使藤原秀郷と協力して将門を滅ぼしている。
注記 ?は目偏に候の字、星の名はラゴという。また千葉系図はかなり多く異説がある。私は尊卑分脈や桓武平氏系図にある忠頼(村岡次郎)の開祖説に従った。忠頼の子・忠常が千葉小次郎と名乗ったことから忠常の開祖説、忠常の孫・常兼(千葉大介)の開祖説、常兼の子・常重が千葉常重を名乗り、実質上の千葉氏初代とするなどの諸説がある。
379 紋章を求めて”墓荒らし”の記(3) 古沢襄

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