381 紋章を求めて”墓荒らし”の記(4) 古沢襄

播州・赤松氏と常陸・赤松氏のつながりは、まだ掴めない。僅かに播州・赤松支族の七曜紋と常陸・赤松の九曜紋に類似性をみるが決め手にはならない。常陸・赤松氏の開祖は赤松祐弁(1320頃ー1409)だが、自らを赤松次郎入道円心の曾孫と称した。赤松山不動院記録にある。(赤松山不動院)

赤松円心は元弘の変(1331)で挙兵し、六波羅に攻め入って、北条の鎌倉幕府打倒の功績があった赤松則村である。後醍醐天皇の信任を得て、播磨守護職に任じられている。だが則村と祐弁を結ぶ関係は不明確である。播州赤松系図にも祐弁が父とする満範なる人物は出てこない。
祐弁が実在の人物であったのは下妻・円福寺などの古文書で確認されている。さらには足利尊氏とその弟の直義の抗争(観応の擾乱)に際して、祐弁は直義に味方して敗れ、下総国に逃れている。播州・赤松氏が終始、尊氏党だったことと矛盾する。
祐弁が常陸・赤松氏の開祖とする説に異論もある。播州・赤松氏は赤松満祐の時に足利将軍・義教を京都の満祐邸に招いて暗殺した。有名な嘉吉の変である。このために満祐はじめ一族は足利幕府軍に攻められ、ほとんどが誅殺されている。その時に満祐の子が下総国に逃れて、やがて常陸国で土着したのが常陸・赤松氏の開祖となったとする異説である。いずれも下総国が関係している点に注目したい。
播州赤松系図では満祐の子に彦次郎教康の名がある。城山(きにやま)城を包囲された満祐は教康を呼んで脱出を命じ、自害して果てた。伊勢国に逃れた教康は幕府の知るところとなり、捕縛される前に自害している。赤松残党に対する足利幕府の追及は厳しいものがあった。播州・赤松氏については高坂好氏の「赤松円心・満祐」の労作がある。
少なくとも播州赤松系図からみるかぎり満祐の子が下総国に逃れた説には信憑性が薄い。その子の名もつまびらかでない。推理すれば、満祐の子と称する者が下総国に現れ、それを討ち取った祐弁が直義党の罪を許された可能性がある。事実、祐弁は鎌倉公方基氏から許されて、常陸国川尻邑に住みついている。円福寺は尊氏の兄・高義の創建によるものだが、鎌倉公方氏満は寺の再建事業で祐弁を用いた。
満祐一族を徹底的に抹殺した足利幕府も嘉吉の変が納まると赤松政則を登用して赤松家の再興を許している。政則は満祐の弟・義雅の孫。義雅は幕府軍の城山攻めが始まるや、いち早く戦線を離脱して、攻め手の赤松満政の陣に降った。
播州・赤松氏も満祐一族の本家筋と満政、義雅ら庶流筋(国人衆という)の対立があった。義雅は一時とはいえ満祐の陣に加わったことの責任を感じて、満政の陣で切腹して果てた。これを哀れと思った満政は義雅の遺児・千代丸をかくまって育てている。千代丸は元服して時勝と名乗ったが二十三歳で亡くなった。政則は亡くなる直前に生まれ、僧侶の手で育てられている。
本来なら赤松満政こそが赤松氏再興の中心になるべきであったろう。嘉吉の変以降も庶流筋とはいいながら足利幕府の重臣の座にあった。しかし山名氏と対立して挙兵し、誅殺されている。残った赤松政則が浮上したのには、このようないきさつがある。
作家の新田次郎は播州・赤松氏の発祥の地である赤松邑を訪れたことがある。山間の僻地とも言うべき赤松邑から建武の中興の原動力となる武士団が生まれたのを驚きの目で見つめている。私はまだ訪れていないが、新田氏によれば山間を流れる川の両岸に僅かな耕地しかないという。(播磨国・赤松村の図)

山野を駆けめぐり、弓矢で獣を討つことで生業を立てた山の民族であったろう。戦には強いが、京都のような政略の都には向かない氏族であったのではないか。それが赤松氏の悲劇の歴史の根っこにある気がする。
赤松則村の家紋は左三つ巴紋。巴は古代中国の咒術的な紋様で、象を食う怪獣と考えられていた。平安時代の公家、鎌倉時代の武家の間で流行し、日本では鞆(とも)を形どるといわれた。鞆は古来、弓を引く時に左手につけて弦に直接触れないための武具。「日本紋章学」では巴は鞆絵と書くを正しとす、と述べている。
巴紋を使う家は神の加護があるという。忠臣蔵の大石内蔵助の紋所で有名だが、西園寺、宇都宮、小山、結城、佐野などの諸家が使っている。(左三つ巴紋)

コメント

タイトルとURLをコピーしました